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地上より三尺を行く性器 その他/中村冨二

お寒うございます。みなさまお元気ですか。相変わらずこちらは、現代川柳とヴェイパーウェイヴの話をしてまいりますよ。温かくしましょう。過剰に着込んで。過剰に摂取して。じぶんを抱いて。

さて前回の、「現代川柳もヴェイパーウェイヴも、それひとつで立つには拠り所がないらしい。それって媒体特殊性では?」というのの続き。
拠り所がない、という言い回し、読みようによっては語弊があるかもと思ったので改めて言っておくと、悪い意味ではないです。
そういうありようだからこそ持てる魅力がある、ということで、じつは現代川柳にはすでに、そのことをはっきり指摘した珠玉の一句が存在します——「ゆらめくものをゆらめきで突く/ササキリ ユウイチ」(初出:第9回川柳句会ビー面)っていうんですけど。
かようにゆらめいていることで、一行の文字列、一片のトラックとして硬直することなく、たえず隙を含むことができる。それはつまり、一行/一片のうちに、見える/聞こえる以上にたくさんの光景や心情を含むことができるということ。あるいは前句=その時々の“現代”社会と併走させることで、たえず別の新しい光景や、心情への回路を開き続けられる、とも言えましょう。
この確定できなさこそ、現代川柳・ヴェイパーウェイヴ双方の特珠性ではないでしょうか。確定できないのにそこにある。確定できないから語ることはむずかしいけれど、触れれば毎回ちがうなにかが頭の中に発生する。どんどん引き込まれる。やめられなくなる……。サイケ、ですね。

が、逆にこれを瑕と取ると、くだんの「わからない」*1とか「ゴミ」みたいな評価になってくるだろうこともわかります。
ありものの語りで、確定できないものを語ろうとするのはとてもむずかしいし、労力が要る。それになんなら当の現代川柳・ヴェイパーウェイヴ自身が語られることを求めていないわけで、よほど気持ちとからだに余裕がなければ……。でもさ。そもそも意味の確定とか伝達って、そんなに大事ですか?
事務文章やヴァイブスのない散文、あるいはずぶずぶにマーケティング済みの人生応援ポップスしかない世の中、想像してみて、そこにいたい人ってどれくらいいるんだろう。いるであろうことは間違いない。けどそればかりの中でだけ生きていくことがそれなりにストレスだから、ヴェイパーウェイヴはバズったのではなかったでしょうか。
現代川柳も、そういうストレスにつかれきった人たちを、とくに惹きつけているように見えます。来し方はいろいろ、なににそれほどのストレスを抱えさせられたかもいろいろ。でもおもしろいもので、それ=ストレスの負荷がかかってるみたいだ、というのは、誰からも察せられます(主に各自の川柳以外の発信からですが……)。
だから個人的に、だれの現代川柳も愛おしい。そこに解放の一瞬があるから。
それは当然永遠ではないし、一句の解放でなにもかもが変わるわけもない。でもその一行の句のあいだ、たしかにその句を書いた人は解き放たれている。好きなように息を吐いているのが、あるいは思う存分ためいきを吐いているのがよく分かる……なにげなく書きましたがためいき、って最高ですね。こんなにおもしろいためいきのあふれる世の中なら、いわゆる世の中よりずっと信用できる。幸せが逃げる? しゃらくさい。その陳腐な言い回しをいますぐあんたの口にねじこんでやる。とくと味わい直せ。もっと考えろ。考えて物言え。確定できないものへの“考え”が、ファ××ン足りなすぎんだよ……。

こほん。
そしてこの「拠り所のなさ」、言い換えれば、「異物」であるとも言えそうです。

主流の音楽に対し、その中でも期限切れのものを切ったり貼ったりスクリューしたりして出来上がった異物がヴェイパーウェイヴ、とは前にも申したとおり。現代川柳についても、川柳がそもそもが連句の平句(二句目以降の句)から発展してできた、ということは前に申しました。
さらに現代川柳に絞り込むと、連句の一部から生じた川柳の、さらに遠くへ飛び出そうとして行われた、ということは、大文字の川柳からしても十分異物であると言えます。異物のうえに、異物。
たがいに根ジャンルからすれば異物である、という共通点。
それはそれだけニッチである、と同時に、大勢へのカウンターとしての魅力を、生じたその時から帯びることを意味します。誕生の過程からしてカウンター要素を孕むという、このことも現代川柳・ヴェイパーウェイヴに共通の特殊性だと考えられます。

「確定できなさ」、「生まれながらのカウンター」、という二つの共通する特殊性があるのでは、と今回は掲げてみました。
ただこの二つだけだと、川柳を川柳たらしめるもの、とされる例の三要素(うがち・軽み・おかしみ)を言い換えたもの、と見えなくもない。
というわけでここへあともうひとつ、特殊性を付けくわえてみようと思うのですが……。字数いっぱい。この続きはまた来月ということで。みなさまファッキン、よいお年を!

*1「詩客」俳句時評162回 川柳時評(6)「分からない」問題と「分かる」問題 湊圭伍https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/e/f270a991ae2272c7e7d986c5a59cad69
「わからない」問題といえば、現代川柳界理論派のトップランナー・湊圭伍さんのこちら。「わからない」が出た実際の流れを読み解きつつ、それがどういう思考から来ているか、逆に現代川柳が「わかる」とはどういうことかを検討されています。
というよりなによりずっといらいらされてておもしろいので(失礼……)ぜひご一読のほど。いらいらの共有にも意識して書かれているので、読むこちらもおなじくいらいらできます。たのしい。↩︎

西脇祥貴のアバター

安堂ホセ『DTOPIA』を新幹線のなかで読んだ。おもしろかったので横浜まで着く前に一気に読み終えた。

歪みまくっている現代社会をとにかくテンポよく皮肉り倒していく文体が爽快だった。コメディ寄りにせず,しっかりと作者自身の怒りを投影することで,あとから勝手に滑稽になっていく感じ。こういう書き方は好き。オチは普通だった。

松田さんに「2025年を象徴する言葉は何になると思う?」と聞かれ,それを話のネタにして美船で飲んだ。松田さんは「狂気」,私は「陰謀」だった。どっちもありそうだと思う。

『DTOPIA』は次世代の恋愛リアリティショーを舞台にした作品で,番組として「あらかじめ編集された現実」が話の時系列をあいまいにしている。

この「あらかじめ編集された現実」という感覚が時代の精神を的確に捉えていると思ってて,なんていうか,「各々が見たい現実を見たいように見る」みたいな感じ? 普段自分が情報を得ているタイムラインから,意図して別の界隈に飛んでみるとびっくりするくらい全然違う信念を共有している集団がちゃんと秩序だって存在していて,向こうからしたら私の言っていることは陰謀かただのうわ言か。それも相当意図して道を外れないと分断が分かりづらくなっていて,そもそも私は両親が言っていることももうよくわからない。みたいな。

zonbipoのアバター

哲学することのナラティヴについて

このサイトを運営しているzonbipoくんと会ったとき、彼はナラティヴを大事にしたい、と言っていた。なるほど、そういう考え方もあるのか、とその時は漠然と受け入れただけだったが、少し時間をかけて僕の中で燻しあげられてきたようで、甚く共感するようになってきた。

僕がどういう人間なのかを簡単に紹介しなければならない──ひとつのナラティヴとして?

肩書きは大学院生だ。博士課程で哲学を研究している。デリダという現代フランスの哲学者を専門にしている。なぜわざわざ博士課程まで行って研究をしているのか、という問いにはいくつもの答え方があり、しかしそのどれもが正確じゃないようにも思える。とりあえず差し当たりの説明として次のように言っておこう。大学を卒業して路頭に迷っていた時、学部時代に指導してくれた先生から大学院進学を勧められた。そのときたまたま読んでいた本がデリダのものだった。さっぱり分からなかったから、これを理解できるようになろう、と思い立つ。晴れて修士課程に入学を果たすも、学部で全然勉強してこなかったせいで、研究に手こずる。ほとんど毎日休まずに研究をし、2年で修士論文を書き上げる。研究が忙しすぎて将来のことを考える余裕がなかったから、そのまま流れで博士課程に進学。もうすぐ最初の一年を終えようとしている。

ところで、日々論文の執筆に悪戦苦闘しているわけだが、論文というものがあまり好きではない。論文とは、ある主張を論理的に説得するための文書である。誰が見ても(一応)納得できるような文章でなければならない。だから、論文は誰が書いたものだったとしても、説得的でなければならない。論文の冒頭にはタイトルと著者名が書いてあるのが通例だが、著者名が別の人物に書き換えられたとしても、あるいは伏せられたとしても、当の論文の権威が強化/弱化されてはならない(実際、論文が妥当なロジックを展開しているかを他の研究者が判断する「査読」というプロセスにおいて、多くの場合、著者名は匿名化される)。内容だけが問題なのであって、ここでいう内容とは、情報とロジックのことである。僕は情報とロジック自体には感動しない。

むしろ、僕が惹かれるのは、なぜ当の著者が当の情報とロジックを展開する必要があったのか、という必然性の方である。或る人はこれをナラティヴと呼ぶのかもしれないし、また別の或る人は身体性と呼ぶかもしれない。いずれにせよ、そのような極めて属人的な性格にこそ、語ることの意味が宿っているように思う。任意に交換可能な人間ではなく、それぞれの人物の特異性との関係において思考と向き合うこと──生成AIがどんな文章も記述できるようになりつつあるいま、そのような極点における思考だけが書くに値するのではないだろうか。だが、それでもなお、それは思考と呼べるのだろうか?ある程度の一般性を持ったロジックとしての思考と呼べるのだろうか?

残念ながら、僕が片足を突っ込んでいる学術界は、こういう個々人の特異性みたいなものは基本的には評価の対象にならない。情報とロジック、そしてそれらの集積が(高度に)要求されているにすぎない。実のところ僕自身だって、論文を書くときには、僕個人の実存が何ら影響力を持たないような文章を連ねることになる。とはいえ、哲学とは世界の見え方・現れ方について論じる学問である。論文はたしかに学術界にとっては情報とロジックにすぎないかもしれないが、それを書くことによって、書き手である僕自身の視点が変化する。そこにこそ大きな価値がある。対外的には学会という非常に限られたコミュニティでの評価にしかならないかもしれないが、個人的には大きな変化がもたらされている。そして、文章というのは後から別様に意味づけ直すことができる。情報とロジックでしかないかもしれない僕の書いた論文が、僕自身の生において、後から(まさに)ナラティヴのなかに位置付け直されることができる。もし哲学者として生きるのであれば、その生の物語を見せることが仕事になるのだろう。研究をすることによって、僕にとっての世界のあり方がどう変わっていくのか。そして変身を経た身体で、世界とどのように関わっていくのか。デリダは、ロジックによってロジックの外部の必然性を示す「脱構築」という思想を展開した哲学者だが、僕の哲学がナラティヴに位置付けられる瞬間、ロジックの外部が笑ってくれるかもしれない。

佐藤瑞起 a.k.a. Ben’Kのアバター

年末,高校の同窓会に行った。一学年で240人くらいいたかと記憶しているが,50人ほどが集まっていた。7年ぶりだかに顔を合わせる同級生たちはあんま変わってなかった。なんだか普通に楽しい同窓会だったので意外だった。私が嫌いだったのは同級生たちではなく,校舎の陰鬱な雰囲気や教師の冷たい視線だったんだといまさら気づいた。

同じ卓に座っていた,高校時代には一言も話したことのない子が八幡山に住んでいるといっていて驚いた。生徒会長も東京にいるようだ。シンガーズハイの内山の話でみんな盛り上がっていた。同級生で一番の有名人だからか。半数くらいが結婚してた。半数くらい地元に残っていた。同窓会の幹事は実家の近くのトヨタで働いていて,偶然クラウンを買いに来た私の親父は,試乗中にわが息子とそいつが同級生だったことを知ったそうだ。保育園から小・中・高と一緒だった幼なじみも居た。そいつも結婚していたし,旧い友だちが全員結婚していることをそいつから知った。高校時代ずっと付き合ってた元カノはインフルかなんかで来てなかった。

同じ部活のダチが一人だけきてた。もともと4人しかいなかったが,一人は出産後で,一人は年末も仕事で会えなかった。この4人とはずいぶん仲が良かった。一人だけ来てたダチは顔の輪郭がわからないくらい太ってて,それをずっと怒っていた気がする。そういえば高校時代の話なんか誰もしてなかったな。案外みんなあそこが嫌いだったのかもしれない。そう思うともっと昔からみんなと仲良くしておけばよかったとも思う。

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関越トンネルを抜けると→そこは雪国新潟
加久藤トンネルを抜けると→そこは南国宮崎

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運動をする習慣があった。あった、ということは、今はもうないということです。10代の頃はひたすらバスケットボールをしていたし、22歳まで筋トレやストレッチを日課にしていた。23歳になって運動習慣がぱったりと止まり、その影響が体つきに表れるようになった。

ということで、新年の目標は、運動の習慣を取り戻すことです。さっそく、ランニングを2日間続けています。

じっさい走ってみると、持久力や筋力の衰えを実感する。これまでも帰省するたびに実家の周りをぐるぐる走るようにしていたのだけれど、この1年間で体力がガクンと落ちた。以前と同じペースで走るとすぐ息切れするし、そもそもこれまでと同じペースで走ることができない。確認する機会がないだけで、筋力や敏しょう性も同様に低下していそう。

とはいえ、体力が衰えているということは、その代わりになにか別のことに取り組んでいたということでもあるかもしれません。明確な指標はないにせよ、たとえば高校生の時と比べると知力がついたような気がします。こうやって、運動と勉強をトレードオフの関係にあると理解すれば、運動不足を正当化できるということです。そんなことない気がする! 体を動かすのも、頭を使うのも、どちらも大事したほうが楽しそうです。

てか、運動の習慣を「取り戻す」ってちょっと傲慢というか、生意気な気がしますね。運動の習慣を「つける」ことが目標です。イチからやっていきます。なんかナイキのトレーニングアプリの初心者向けのメニューとかやってみます。記録とかつくし。数字に一喜一憂したり、自分の気持ちの変化に着目したりして、体を動かすルーチンを作っていきたい。

やや話が変わりますが、最近の関心は、生活をする中で自分や他人が直面する状況をどのように理解できるかというところにあります。測定できる部分だけに着目してそればかりに集中するのは貧しいですが、その一方であらゆる物事の意味の解釈ばかりに従事していることが豊かかというとそうではないような印象があります。その両者の中間のレベル、あるいは全然別のやり方を模索したいと考えているのが最近のこと。

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