2024/08

0830の続き。そもそも何の話をしていたかというと,最近話題になっていた松岡正剛さんという人を,私が知らなかった。というだけのことだった。松岡さんの話になると,よく澁澤瀧彦の名前も一緒に挙げられている。「旧いタイプの知識人」の筆頭格といった感じだ。こちらの方は割とよく知っている。私は澁澤のわりと熱心な読者だ。近々鎌倉に行って,お墓を訪ねたいとも思う。よく槍玉にあげられる彼の引用の粗さというか,綻びについて指摘のある論文とかも時々読む。

だが,澁澤を,アカデミックな作家として読んでいる人なんてどれくらいいるんだろう。少なくとも私はそこから入っていない。ふつうに顔と雰囲気がかっこよくて文章がうまいから好きだ。自意識を匂わせないのもいい。自伝などを読むと,割と苦労人だったことも分かって同情する。浅田彰とか読んでる男より女の子にウケそうだし。そういう動機だ。

それに,澁澤瀧彦って圧倒的に「過去の人」じゃないですか? 別に書いてあることが間違っていてもあまり気にならないっていうか,面白ければ何でもいいわけじゃないけど,それよりも巨大な実績を遺していると思うし,澁澤のある点における「雑さ」が作品の評価を損ねることにはならないと思う。

専門外なのだ。それだけ。私はアカデミックに関係がない。興味もない。それらが与えてくれる方法論は上手に使いたいが,ただそれだけでいい。少しでも幸福に生きたい。

「幸福に生きたい」ってマインドのときと,「苦痛を減らしたい」ってマインドのときがそれぞれ独立してある。

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0829の続き。ササキリユウイチの連載1話目の冒頭で,以下の箴言が引用される。

エピクロスいわく、死は我々にとっては何ものでもない、なぜならば、我々が現に生きている間は、死は我々のところにはなく、実際に死がやってきたとき、われわれはもはや存在しないからである。

ササキリは「小さいころは、死ぬことがすっごく怖かった」と言う。あの一見めちゃくちゃ難解に見える連載は,このようなある意味で凡庸な恐怖と,それに対する哲学者エピクロスの【回答】からはじまっている(そういう一問一答のマインドで読むと彼の連載はけっこうわかりやすいので途中で読むのを諦めた人はもう一度チャレンジしてほしい)。

私は鈍感なので死への恐怖に囚われたことはほぼないが,「このままだと,大学を留年してしまう」というときは,毎日がストレスだった。しかしエピクロスは私にこんな手紙をくれる。「留年は我々にとっては何ものでもない、なぜならば、我々がストレートに進級している間は、留年は我々のところにはなく、実際に留年が確定したとき…(略)…」この言葉は私を大いに勇気づけた。

私の考えでは,①ものを知らない状態,②ものを断片的にしか知らない状態というのは,常に②から①への立ち返りによって成立する。若き日のササキリは①理解できない【死】という観念への恐怖を,②エピクロスの教えによって納得したが,同時に‟納得し続ける必要があった”。ササキリによると「反駁する手札をもたずにあった」という。②の教えに反論し,ふたたび①に立ち返り,問いを更新し続けるための知識が足りなかった。ということだろう。

ササキリの書き方は,いまのところこれと相似形である。まずセンテンスの頭に,①ぼんやりとした疑問が述べられる。②それに対応する引用や解説が続く。それを包み込むパラグラフのなかでも,同じような②→①の構造がある。パラグラフの連なりにおいても,概観すると,②後ろから①前へ意味を補強する形になっている(ササキリの文章が,一見すると何を言っているのかわからないように見えるのは,こういった性質があるからだ。つまり読む順番を前後で入れ替えたりすると,途端にかなりわかりやすくなると思う)。つまり②から①へのフィードバックが起きているといえないか。

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松岡正剛という人が亡くなったというニュースをきっかけに,松岡さんとその周辺の「知の巨人」の欺瞞というか,「実態を暴く」みたいなポストがツイッターでよく回ってきていた。一時期はほぼその話題しかあがってこなかった。私は「千夜千冊」というブックレビューのウェブサイトをたまに覗いていたくらいで,その正式なサイト名が「松岡正剛の千夜千冊」であるということも,ちょうどいま検索をかけてはじめて知ったくらいなので,松岡さんのことについては本当に何も知らない。

ツイッターはただのタコツボ(フィルターバブル)だからどうでもいいとして,私は同世代の人間たちと仲良くやっていきたいから,「○○○○(任意の著名人。死んだとか,逮捕されたとか,収賄だとかで報道された人)って人知ってた?」みたいな居酒屋トークの方が興味がある。

出版業界で働いている身として,会社で「○○○○って人のことは知りません」というのは言いづらい。勉強が足りないと叱られる。そこは学校の延長線上の感じがする。「お前,ユークリッドの互除法も知らないの」みたいな。働きはじめてわかったのは,①自分がいかにものを知らないか,②知識を系統立てて理解していないかということだ。

その点でいうと,松岡さんがバッシングされていたのは主に②の点についてなのかもしれない。私が叱責に遭うのは①の方だ。皆さんはどっちですか?

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0825の面白い人に憧れているという回で,「飲み屋でさらっと話した時に最少語数で笑いを取れる人もかっこいい」,「人間関係に依存せずダイレクトにポジティブな感情を与えることができる点で尊敬できる」という言葉があった。そのときちょうど読んでいた菊地成孔と大谷能生の対談本にこんな一節があったのでそのまま引用する。

大谷 コミュニケーションの話ね。俺たちと下の世代で一番変わったのはそこかもしれない。三十歳くらいの人たちのしゃべり方を思い起こすと、今の菊地さんの話はよくわかる。人としゃべるよりもネットが先に来る人たちというか。生身の相手よりネットに書き込む感覚が先にあるように見える。ネットに向かうときって目の前に人がいないぶん、頭の中だけで考えるじゃない?しゃべり方にそれが出てる気がする。
菊地 若者しゃべりって全部それな。
大谷 そのせいか彼らは人との会話が少しうまくいくと、すごくいいコミュニケーションができた気になる。でも人の話をたぶん、あんまり聞いてないんですよ。聞いてないということはないか。なにか、直接のやりとりじゃなくて、どこかを媒介して言葉づかいをチューニングしてるというか。
菊地 うん。これでAIとチャットする心地よさを覚えたら、その傾向はさらに進むね。人としゃべること自体がそもそも億劫になる。たとえば、音楽でも一度打ち込みの便利さを覚えると、バンドを組織する面倒くささがグッとのしかかってくるけど、人との会話もそれと同じようになっていくと思う。キスぐらいの重さっつうか。

これはすごくわかるし,私自身,世代が近い人と会話するときは,生身の人間と話しているというよりも,テキストボックスに文章を流し込んで送信する感覚というか(だから誤字/言い間違いがものすごく多い),相手の反応は踏まえるけど,相手に伝わっているという意味での「既読」なのか,あまり伝わっていないという意味での「未読」なのか,それとも「未読スルー」なのかみたいな,会話がデータベースのなかのパターンに還元されていくような感覚になる。もちろん,そういうコミュニケーションの方が気楽で,やりやすいのだ。

そうしたコミュニケーションの傾向を菊地は「コミュ障の合法化が進む」というふうに言っている。「話がうまくかみ合うこと自体が奇跡的,スムーズな会話はほとんど魔術,みたいな扱いにきっとなる」とも述べている。上で引用した「最少語数で笑いを取れる」,「人間関係に依存せずダイレクトにポジティブな感情を与えることができる」人がかっこいいというとらえ方も,見方によっては十分にコミュ障的ではあるし,これからどんどん優勢になっていくのかもしれない。

zonbipoのアバター

今更ながらこのサイトの全貌? 構造? が分かってきたような、分かってきてないような。色んな人が日替わりで文章を寄せて、その集合で雰囲気? ゲシュタルト? を形作るって感じ? ? 何も分かりません笑。管理人から突然「毎月寄稿してくれ」と言われて、何も分からんまま毎月書いてます笑。 ? w

しかしどこの誰かも分からん他の人が書いた文章が、日付という枠組みにも、サイトに描写されてる電子的な枠組みにも区切られて並べられているというのは、面白いですね。僕は参加者としてここの文章を読むの、結構好きです。まるで同じマンションに住んでる人同士の距離感みたいじゃないですか?

エントランスや廊下ですれ違いざまに顔や服装を見て、挨拶を交わすほどの仲でもないけれど、何となく身近な部分で生活を垣間見ているような、そんな奇妙な連帯感というか、気まずさを伴った親しみを感じます。

同じシステムでもツイッターほど馬鹿でかいプラットフォームだともはや“国”という感じで、まじで誰やねんお前とか、アニメアイコン黙れとかしか思いませんが、ここは良い意味で土壌が狭くて、閉鎖的で、個人的なので、より内面的で日常に肉薄しているような良さがあります。

あんまり言い過ぎると同士で馴れ合い初めて内輪ネタに走って終わる、あの頃のニコニコ動画みたいになりそうなのでもう他の住民へ言及するのは止します。ごめんね、違う話をします。

友達がこの間、車に轢かれて物凄い勢いで壁に叩きつけられて、体が“卍”の形になったらしい。

魚座の仁のアバター

TOSH7 – “Seven” release party

TOSH7

saloonのアバター

面白い人にずっと憧れてる。interestingじゃなくてfunny、amusing、シンプルに人を笑わせられる人。

芸人とか放送作家とかハガキ職人とか面白いを仕事にしてる人はもちろんだし、飲み屋でさらっと話した時に最少語数で笑いを取れる人もかっこいい。ハガキ職人は職業じゃないか。

まず前提として、人間関係に依存せずダイレクトにポジティブな感情を与えることができる点で尊敬できる。単純な快、人生の光、命を救う。

それに加えて、面白い人ってなんだか垢抜けている。対偶を取るなら、イマイチ面白くない人は垢抜けてない。多分こっちの方が憧れの理由としては大きい。

この垢抜けという概念が厄介で、なかなか掴みどころがない。何をすれば獲得できるか見えてこない。

仮説の一つとしては、根拠と自信による裏付けが必要なのではないか。というものがある。ファッションが垢抜けている人はそのファッションに至るまでの過程があり、根拠を持ってその姿であり、自信がある。そんな感じで、自分の笑いに根拠と自信を持てれば垢抜けるのではないだろうか。

じゃあそのためにどうすりゃええねんって話ですよ。面白い人になれる方法を知っている方はDMください。

Renのアバター

Let’s go to bed=もう寝よう。この英語のひとことが、ただの一度も「ベッドに行こう」などという意味をもったことはない。英語の名詞が、a / an /theがつかないとき、それは数えられないだとか、意味不明なことを教わるが、bedは数えられるはずだ。これは裸の名詞である。裸の名詞は、その機能を表すのだ。You should sleep in your bed. 子どもにもう寝なさいというとき、ベッドは裸ではない。子どもはそのベッドを裸のもの=寝る場所として受け取らない。子どもにとって、ベッドはユートピアなのだ。布団を被れば幽霊が出る暗い森になり、シーツの襞は海のよう。剥き出しのベッドは寝る場所ではない。だから、yourと所有させておかなければ、子どもはいつまで経っても寝ない。go to bed withは情事に絡む。裸のベッドは、その機能であり、眠ることであり、剥き出しの性行為なのである。I’m going to bed=もう私は寝るよ。これは、私ひとりの、孤独な未来のニュアンスが含まれる。誰が貴方と寝るときに、枕をともにするときに、もう寝るね、などと言うだろうか。裸の名詞とは、その権能なのである。その名詞が、その光景が、その場所が、自ずから為しうる能力の発露なのだ。裸とは、自権性なのだ。だが、どの動物が鏡のまえで、赤面せずに裸になれるだろうか? 裸の姿をつまびらかに、あますことなくさらけだし、それを見ること、しかも全身鏡で、しかも三面鏡で。誰が、その裸に、素直に向き合うことができるだろか。誰が私の裸に応答できるのだろうか。

be going toと似た仕方で、だが決定的に異なり、will=意志がある。I willとは、単に出来事が正しい可能性があると話者がただ信じていることにすぎない。be going toは、もはやすでに確定している未来や予定、前もって決まった計画を表す。I’m going to bed=もう私は寝るよという発言においては、もう貴方とは寝ないということが確定しているのだ。I’ll be backとシュワルツェネッガーが演じるT-800は『ターミネーター』において言ったが、それは意志の問題なのだ。GHQのマッカーサーがI shall returnと言った。決意? これらの差異は何か。それは決して決意でもなんでもない。shallは英文における、例えば契約書で「義務」や「強制」を表す法律用語として使用される。shallとは神に誓ってなのだ。だが、果たしてwillは私に誓った意志なのだろうか。まだ私に判断能力があるうちに、アクシデントにより判断能力を失った場合に備えて、延命治療や尊厳死などに関する意志を表明するLiving Willの解釈はこの点において極まった困難を示す。生前遺言書は、果たして意志なのか? だとしたらshallとwillの違いは、機械のはずの人間T-800と、マッカーサーの違いはいったい? willは、かくして法の世界に取り込まれていと言わなければならない。shallもwillもくだらない服従である。

May I come in? 英検のときに必ず覚える言い回し。「失礼します」、「入室してもよろしいでしょうか?」。さらに回りくどく訳してみよう。「私は中に入ることが許可されていますか?」。相手に許可を求めるニュアンスは薄れ、もはや決まり文句であり、もう入室してもよいことは決まっている。Mayは常にフィフティー・フィフティーであり続ける。レトリカルに、mayは半々の可能性を表しておきながら、実のところ、もはやすでに決め付けられている。もう君は知っているんだろう? You may know it=君もおそらく知っているだろう=君は当然のように知っている。

『ジョン・ウィック』の4作品目で、ドニー・イェンが演じるケインは、キアヌが演じるジョン・ウィックに向かって、You’re going to dieと言い放つ。ジョンは、それに深いタメをつくったあと、意味深にMaybe notと言い返す。ケインはにやりと笑う。You’re going to die=君は確実に死ぬだろうに対して、Maybe notは「そうはならないだろう」と返されているのだ。実際、ジョンはこのmaybeの曖昧さに全ての服従から逃れる可能性を賭けている。自分との約束を交わしている。ジョンには決して意志などない。ただmayの、ことの成り行きの曖昧さのなかに、それでも確実にその決められた未来=be going toに対して、willともshallとも異なる、いわば無法地帯の、アナーキーな意志を差し戻すのである。それは他人からは不確実で、曖昧なものであり、決して決定不可能であり、検証不可能なのだ。mayは、法(shallのような神への宣誓)も、自由意志という擬人化(willに見られる道徳的な自由意志)からも逃れた、観測不可能なmayなのだ。mayには、自分が自分に許可すること、自分が自分に約束することをいかなる介在もなしに成し遂げること、自分が自分に対して約束することを許可することが宿っている。mayを打ち立てるその主体は、果たして裸だろうか。

ササキリユウイチのアバター

酒を飲んで幻覚を見たことはないが、元が妄想癖な人間なので、 妄想と現実の区別がつかなくなることはある。

皆そうかもしれないが、僕は普段から頭の中で色々な妄想をしている。特に、人との会話のシミュレーションをしていることが多い。今度あいつと会ったらこんな話をしよう。とか、こういう話題が出たらこう切り返したらカッコイイかな。とか、これ言ったらウケるかな。とか。酒を飲むと記憶が曖昧になるので、妄想していたセリフを実際に言ってしまったのか、あるいは頭の中にとどめておいたのか、どちらかわからなくなってしまう。
自信満々にエピソードトークをして、「それ前にも聞いたよ」なんて言われることもあるし、すでに共有済みだと思っていたことについて話すと、「何それ初耳なんだけど」なんて反応が返ってくることもある。

まあ、ウケ狙いとか、ええかっこしいの発言なら、知らないうちに口に出してしまってもあまり気にならない。スベッて終わりだからだ。ただ、頭の中では、口にすべきでないこともたくさん考えているわけなので、たまに不安になる。腹に一物抱えている、というわけではないが、聖人君子でもないので、結構失礼なことも考えている。ありがたいことに、今のところ、飲みの場でそれを口に出して、他人と仲違いした覚えはない。僕は飲んでいるときも案外理性が働いていて、言うべきこととそうでないことの判断ができているのかもしれない。

いや、これこそ妄想だ。

実際のところは、僕の失言を受けたうえで、相手が我慢してくれているだけなのだろう。申し訳ない限りだ。失言したこと自体も悪いが、それ以上に、僕の方に相手を攻撃した自覚と記憶がないので、尚更たちが悪い。

もしかしたら、相手も飲みすぎて、僕の発言を忘れている可能性もある。だったらラッキーだ。相手の記憶に残っていないのなら、言ってないのと同じである。酒の席での会話なんて積極的に忘れてほしい。どうせ僕だって覚えていない。まともな議論なんてできないんだし、何となく楽しかった、という記憶が残ればそれで十分だ。

……てか、この話前もしたっけ?

川島 航のアバター

やっぱ日本酒はあかん。

zonbipoのアバター

魚類図鑑の中にアナタの 口をあいても死なない時間を/中村冨二

どろにえさんが、「現代川柳はヴェイパーウェイヴだ」、と言ったのがなんか気になって、以来「現代川柳はヴェイパーウェイヴかもしれない」とかんがえることが多い。

ざっくりかんがえたのは、「ヴェイパーウェイヴの、日常(と信じ込まされているもの)そのものをずたずたにチョップしたり、スクリューしたりすることで化けの皮を剥ぐ。剝いだところで踊る、みたいなヴァイブスは、現代川柳っぽいかも」ということ。スタイルのうえでの類似ですね。ことばの選択や接続について、あるいはことばをひとりで放っておく放っておきかたについて、現代川柳はたしかにヴェイパーウェイヴがとったやりかたに近いところがある。
もっと言うなら現代川柳は、日常目に見える/脳裡に投射される光景のことごとく(ほんとに小さな断片的記憶までも)とか、日常が体に沁みつかせた規範とかまで、チョップド・アンド・スクリュードしようとする。そういうグロテスクさはたしかに、はじめの頃のヴェイパーウェイヴがもたらしたおどろきに近いものがあるかもしれない。

でもちょっと経って気が付いた。

最近ヴェイパーウェイヴって、聞かないな。

セイント・ペプシがスカイラー・スペンスになったんだ、というのがぼくのヴェイパーウェイヴ最後の記憶だけど、それももう十年前のことだった。巻末に載っている年表によると、その辺りの出来事はだいぶ懐古的なものになってきている。MACプラス『フローラルの専門店』のLP発売とか、それこそこのガイド本の発表とか。

この本の初版が2019年だから、それから5年で状況はまた変わってきているかもしれない。けれどヴェイパーウェイヴ、とわざわざ呼びなされるのはもうあまり見ないし、いわゆるフューチャーファンクへの発展~現行の大文字のポップスに吸収、あるいはワンオートリックス・ポイント・ネヴァーというモンスターの輩出、という道筋をとって、ヴェイパーウェイヴとその発想はある意味、クラシックになっちゃったのかもしれない。速っ、世の中。

ちょっとまって。

そうなったジャンルと並べると、もうどうしたって後塵を拝することにならない、現代川柳?

ただなんとなくだけど、ヴェイパーウェイヴのたどってきた道筋を借りて、ポスト現代川柳のこれまでをまとめたりだとか、現代川柳がバズるにはここをつかまなきゃいけないんじゃないか、みたいな検討はできそうな気がする。サンセット・コープ.=暮田真名、とか大胆に設定してみたりして。

あるいは差違を見出すことももちろんできる──踊ろうとしているのか、溶けようとしているのか、とか。ヴェイパーウェイヴはその最盛期、極上のモダン・サイケデリック・ミュージックでもあったわけだし。となると、サイケデリック、ということの今日的な検討も要ったりして……。ううん、奥は深そう。

以上、非常にむにゃむにゃした思考のくずではあるけど、むにゃむにゃ述べ続けることでひょっとしたら要諦をつかむことがあるかも、などとこのごろは思っています。いや、きっとなにかあるよ。だってヴェイパーウェイヴはそれくらい、魅力的だったんだもの。

※冒頭の句は中村冨二『千句集』より。有名句ですが、ヴェイパーウェイヴ、というガイドラインを添えて読むと、また新しい読み味が生まれると思う。とくに冨二さんの句は。だから今後も引きます。
西脇祥貴のアバター

先日zonbipo君に「何か捨て文章あれば送ってくださいよ」と言われ、そのライトさは中々良いなと思い、今これを書いている。コンセプチュアルな表現からフェティッシュな快感を得る癖を持っている私にとって(筆が立つかどうかはひとまず捨て置いて)文章を書くことは好ましい行為だ。

好ましい行為ではあるが、積極的に行いたいかと言われると微妙なところがある。何故かと問われれば、文章は書き手の思考を瞬間的に固定するためだ。曖昧な思考に形を与えるため文字に起こす、というのは人類が発明した偉大なメソッドではあるが、裏を返せばその瞬間その思考はその場に固定される。

「ええやん、固定して明確にした方がわかりやすいやんけボケカス」というのはごもっともであるが、こちらとしては「ぅゑせぇ、言舌を全部聞レヽτカゝʖˋ文句言ぇゃSNSΦ毒カゞ」といった具合だ。やんのか。

前々から思ってはいるが最近の人類はSNS的な短文による思考への適合を早めており、その傾向は日に日に加速していくだろう。人間は変化と適応くらいしか能がない生物なので、別段それに対して特にこの世の行く先を憂うこともないのだが、私のフェティシズムからすると少し困る。もっとコンセプチュアリズムの海が広がって欲しい、できればコンセプトだけで押し通ってもらいたい。

兎にも角にも重要なのは変化と適応である。一度文章化によって固定された思考はある程度の時が経つか、継続的な執筆でしか変化し得ない。加えてここが一番のネックな上に自明ではあるが、思考をストレートに文章化するのは人間的行為の中でも、かなりの難易度の高さを有している。

言語ごとによる思考体系や口語と文語のニュアンスの差異など諸々の理由はあるが、一番に挙げられるのは「私の思考は常に私に起因する」ということだろう。人間は自身より優れた知性を持つ何某かを創造できない、つまり私が私である以上、私の思考は私を越えず下回らず、私にしかならないからである。私は私の意思を素体のまま出力することが叶わない。

(?)

冒頭に「ライトさが中々良い」と記したが、文章は一度ドライブすると基本的に重くなりがちだ。誤字誤用をケアし始めたらそれはもう労働だろう。ではライトに文章を書くとは? 次があるかは分からないが、まいばすけっとのジェネリック寿司とか、そういうことを書くのも良い。ジェネリックの寿司で得られる快感と、回らない寿司で得られる快感、は、

話が逸れてきている、いや、形式的には漸くこの文章の根幹に近づいてきている、それは、それは、思考が四方八方に散らばる様をある程度残したまま、日本語における文語表現の通っぽくみられるスタイル(「であろう」とか「である」とか、体言止めとか、いつからか身についている文章が格好良く見えるあれ)を貫き、口語と文語の間で、わたしの思考をゆらゆらさせることです。

要するに論理的な帰着とか整合性とか、必要最低限なものは口語的には保った上で、エッセイとは異なる文章を生成することは可能なのか試みている訳です。私という主体の思考が固定化される前の、言わば気体と液体の中間、超臨界流体的な機微が多分今この文章内、というか今この行で発生しているっ、ぽい、熱い(温度=374℃、圧力=218気圧)uooo。何故そんなことをするのか? それが叶えば思考が固定されないままライトに書くことができるのではないかと仮定したからです、

ここまで書いてみて、こう、この文章を上から読み進めていくと、文が進むにつれて何かしらかが溶けてきている感覚があって私的には良さみを感じる。

依羅(よさみ)、川波と海波の相寄せるところ。

私としては良さみを感じても側から見ると痛文かもしれないが、これくらいの年齢になると痛いくらいの方が良いっしょ、やってけないっしょ、ゃっτ⊇ゃっτ⊇。普段文章書く時よりすこぶるリラックスできるし、write for selfcare、新ジャンルの発明ではないだろうか、アガる。

Yengoのアバター

Top 100 Best Albums Of All Time but the snippets are out of context (Best Music Ever)

RYM(Rate Your Music)ユーザーの選ぶ名盤ベスト100から、露骨に「魅力的に聞こえ得ない」(動画においてはout of contextと称されている)数秒間を抽出した13分間の悪夢のメドレーである。

語りやSEのインターリュードを導入した楽曲は楽音的要素を問答無用で剥ぎ取られ、演奏に余韻を残したバンドたちは、その部分だけが容赦なく晒し上げられる。動画投稿者(Payaso Entertainment)がニヒルな笑みを浮かべながらシークバーを動かしては歪な部分を抜き出している姿が容易に想像できる。

そのような断片達に対して、ミュージック・コンクレートやフリー・ジャズ的な価値を見出すことは容易であろうが、おそらくそのような単純な抜け道は用意されていないだろう。結果として、名盤たちはその権威を失った不穏な断片として集積されてしまっている。我々はそのアルバムのどこを聞いていたのか?

YouTubeやTikTokで散見される名盤メドレーは、極めてインスタントに「美味しいところ」だけを流し込んでくれる。1秒も無駄なところがないと評されてきたアルバムたちは実際には非常に脆弱であり、投稿者は我々にとっての都合の良い愛玩物としてのアルバムを細切れにし、その断面を見せつけながら画面の奥から笑い続けている。RYMが白人男子大学生の音楽ナードたちの権威ごっこに過ぎないと批判されていることも想定のうちであろう。

そもそも録音芸術とされているものが受け取り手の編集作業によって完成するようになっている現在において、オルタナティブな権威を提示すること自体が極めて危険であるように思える。とどのつまり私たちは何か明瞭に甘く、ときに難解で示唆的であるように見せるのが上手く、歴史的意義という蓑に守られた樹液に大勢で群がりに行っているように思える。

聞き続ける中で、あなたが不穏でアンコントロールな音の断片に愛着を持ったとしても、それは投稿者による編集作業によって作られた副次的な作品としての評価であることを忘れてはならない。悪夢は循環する。

ぞめきのアバター

とても恥ずかしい話だが,「ブロン」という市販の咳止め薬に,薬物濫用の水準で依存していたころがあって,その頃の人生はもっとも惨めだった。

それをすぱっとやめられたのは,ごくごく単純な理由,仕事が手につかなくなるからだった。ブロンを大量に飲んでいるうちは,当前だが仕事はできない。

ブロンにはまると眠らなくなる。身体はとっくに疲れ切って,まったく機能していない感じがするが,逆にマインドはどんどんハイになってくる。仕事で変なミスを連発する。当の自分はなぜかヘラヘラしている。なるほど,この態度は薬中っぽい。じっさいブロンの成分組成をいくつかいじくると,シャブになる。幸福な未来が待っている感じはあまりしないだろう。

ある日会社で,上司の分のコーヒーを淹れた。できたものをコーヒーカップで渡すと,上司が苦笑している。どうしました? と聞くと,いやこれ,何なんだよ(笑)。と見せられたカップの中身は,コーヒーではなく無色透明な熱湯だった。私は前日にブロンの小瓶をあけていた。

なんだかその瞬間に全身からさーっと血の気が引いて,にわかに身体が冷えたのを覚えている。あ,これは辞めなきゃ駄目だ。と思った。その日からブロンは飲んでいない。そこで絶たなかったら,仕事の方を辞めることになっていただろう。

いま,同じような問題をアルコール,お酒に感じている。26歳になって,無尽蔵に感じていた体力と,肝臓にほころびが出てきた。もうこれからは,一生疲労との闘いだ。そういうときに私のお酒の飲み方はけっこうまずい。お酒もやめるか~~? となっている。節度のある飲酒ほど,私にとってつまらないものはない。母方のジジイ,父方のジジイからそんなことは教わっていない。死ぬ(去ぬ)まで飲め。それだけだ。そういうのは,社会性と非常に相性が悪い。

zonbipoのアバター

「社会の歯車になる」という言葉がある。

決まり文句として定着しているだけで、実生活で聞くことはあまりない。大学の同期が就職活動をはじめたとき、この言葉にしばしば触れるのだろうと予想していたが、そんなことはなかった。むしろ新卒就活をとりまく環境は「社会の歯車」という言葉を求職者からなるべく遠ざけようとするのだと、就職活動に取り組んだことで知ることができた。

とはいえ、ありきたりなフレーズではあるので、たまに耳にしたり、目にしたりする。そのときわたしはさびしくなる。

「社会の歯車になる」という言葉は、さまざまな文脈のなかで使われている。それらは大きくふたつに区別できそうだ。

ひとつは、個性を奪われ、標準化された労働力としての「歯車」。こちらはネガティブな意味を込めて用いられる。たとえば、就職を控えた若者が「俺は社会の歯車になりたくない」と口にする状況を思い描ける。それこそ『モダン・タイムス』って、回転する歯車のシーンで人間らしさを失っていく労働者を描いていましたよね。この言葉を聞くと、組織の構成員になることや、システムに組み込まれることを、そんなに単純に扱っていいのってさびしくなる。

もうひとつは、自己を抑制し、組織の目的達成に貢献しようとする存在としての「歯車」。こちらはしばしばポジティブな文脈で使われる。たとえば、ビジネスパーソンが「頑丈で、正確に作動する歯車となれるのは、すぐれた従業員である」と主張する状況を想像することができる。憶測でしかないんですけど、こんなこと書いてるビジネス本ありそうですね。この言葉を聞くと、プロフェショナルとしての態度や、崇高な理念を矮小化しているような気がしてやっぱりさびしくなる。

いずれにせよ、「社会の歯車になる」って言われるとさびしくなる。ちょっと腹も立つ。もし愛する人が自分のことを歯車だと思っていたら悲しい。しかしなぜだか分からないので、それについてはこれから考えていくことにします。あと、この言葉を使うときの反骨精神やプロとしての誇りを表現できるもっと元気のでる言葉もあると思う。

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