愛すると云わぬ無数の唇うごく/中村冨二
前回ヴェイパーウェイヴの話しなさすぎたなあ、と反省したまま今月が来ちゃった。
でもあれから言うほどヴェイパーウェイヴ聞けてないしなあ、などと考えていたら、ヴェイパーウェイヴ以前として折々名前の出るThe Avalanches『Since I Left You』を思い出しました。
いま聞いてもふしぎ。『Since I Left You』、めちゃくちゃ緻密な完成品です。
↑アルバム1曲目。MVほんとすてき。引くにあたって久しぶりに見ましたけど、これけっこう、ぼくが川柳でやりたいことかもしれないな……。
曲の中のあらゆる音がサンプリングされたもので、自分たちで演奏した音がほぼない、といわれるこのアルバム。
はじめて聞いた時、その情報がもう入ってしまっていたので、ぶつ切りを重ね合わせたミルフィーユな感じ、ゆえのどこか軽薄な感じ(軽み!)はずっとしつつ、それゆえ底なしの、いや元より底の無い陽気さ/ドープさ(おかしみ!!)に手を引かれて、どこかへ連れて行かれる感覚にはまったものでした。
どこかへ、見せたいなにかのあるところへ。そんな力に押し流されるように「愛を探して世界を彷徨」(メンバーのロビーさん談)*1させられてしまう。オリジナリティとか、そういう末節にソウルは宿らない(うがち!!!)。ソウルは歴然としてあり、問題はそこまでどう手を引いて行くか──ということを、具体的に教わったアルバムのひとつです。
かようにいまだ学びの多い大名作ですが、ヴェイパーウェイヴを思い合わせるとき、共通点って「暴力的なサンプリング」くらいしかないことない? と首をひねりました。しかもそれも、結構意味が違うし。
The Avalanchesの場合、とにかく使ったサンプルの量が莫大(レコード900枚超のサンプル元があるとか)。かつとんでもなく細切れで重なっているので、サンプルを仕分けるのも一苦労、という暴力ぶりです。
が、ヴェイパーウェイヴの場合、多くのトラックはサンプルがひとつかそこら。これ、と決めたサンプルのピッチやテンポをいじり倒し、エフェクトを足してループさせまくる、がベースです。だいぶ意味違いますよね。ただ、サンプリング元にだいぶ最近のものが多く、著作権でいくとアウトでは、という危ない音源をばんばん使い倒している、という意味での暴力性も、押さえておく必要があるでしょう。
そしてもう一つ、快楽の種類も結構違うように思えます。
『Since I Left You』が全曲ひとつながりのコンセプトアルバムなせいもありますが、The Avalanchesのそれは、それこそスケールが「世界」ほど大きく、「彷徨」ほど外向きに解き放たれる気持ちよさなのに対して、ヴェイパーウェイヴのそれは、サンプリング元の時代(遅れ?)性もあってか閉塞的で、反復およびそれによって内に沈むことで得られる(まがいものの)安心感と中毒性がもたらす気持ちよさ、なのではないでしょうか。
↑アルバム13曲目。全体のストーリーでいくと、愛に溢れる幕開け→イケイケの旅→一回落ちて、復活するあたり。どちらかと言えばこんな、常時ざわざわした感じがアルバムの基調。
もっともThe Avalanchesも、当時のDJセットはもっと節操なかったらしいですし*2、『Since I Left You』以前はかなりスカムだった、という話もあります*3。それを経ての『Since I Left You』は、ヴェイパーウェイヴの盛り上がり途上に現れたモールソフト(Mallsoft)*4と並べるほうがしっくりくる気もする。
どうしてそんな、節操ないことができたのか。そこが現場であり、記録に残らなかったから、ではないでしょうか(『Since I Left You』リリース:2001年、YouTubeサービス開始:2005年~、Twitter:2006年~、初代iPhone発売:2007年)。
ブートレグはあるかもしれませんがオフィシャルな記録ではないし、公にリリースしない限り、現場はまだまだ隠れてなんでもできる場所だった、と言えるかもしれません。
じゃあそんな、隠れてやらなきゃいけないようなことを、ヴェイパーウェイヴはなぜばんばんやっていられるのか?
場としては隠れていないし、ネットに上げれば記録も残る。なんなら記録は増殖していくというのに、どうしてか──ここに、前回の最後でほのめかした、「確定できなさ」・「生まれながらのカウンター」につづく、現代川柳とヴェイパーウェイヴに共通の、三つ目の特殊性があると思われます。
その特殊性とは……「匿名性」、です。
と、挙げたところで今回もうだいぶオーバーです! 動画リンクたくさん載せましたので、踊りながらまた来月~。
*1 音楽誌snoozer #029に掲載のインタビュー『2001年ベスト・ニューカマー:積み重ねられた音楽の歴史の逆襲、アヴァランチーズ』より。当時6人編成のメンバーのうち、ロビー・チャターさんとデクスター・ファベイさんにインタビューしています(聞き手:加藤亮太さん)。「愛を探して~」は、制作当初のテーマだったそうです。↩
*2 上記記事によれば、「(Underworldの)“Rez”と(The Chemical Brothersの)“イット・ビガン・イン・アフリカ”、(ポリスの)“キャント・スタンド・ルージング・ユー”と(UR)の“ジャガー”が同時にかかり、(おそらくGuns N’ Rosesの)“ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル”のイントロが鳴り響く彼らのDJセット」とあります。字だけでもやばい!!!↩
*3 だってこれ↓ですよ?
The Avalanches Live On Recovery (Run DNA / Rock City) ↩
*4 久々に佐藤秀彦さん著・New Masterpiece編『新蒸気波要点ガイド』を引いてみると、「2013年にVaporwaveから派生したジャンルのひとつ。(中略)名前はショッピングモールから採られ、そうした場所で流れているエレベーターミュージック/ミューザックと同様に、正面から聴かれることを想定していない」音楽、とのこと。
代表として猫 シ Corp.『Palm Mall』を引いておきます↓
猫 シ Corp. : Palm Mall ↩
よねよねげんまい(米津玄師のことです)が2月1日に公開されたインタビューで『教養主義の没落』という本を読んで面白かった本に挙げたのち,その本が2月5日時点で17刷,2月6日には18刷が決まったというポストを見た。初版が出たのは2003年らしいから,20年以上前の本がこの一週間で2回も増刷されるというのはなかなか無いことだと思う。よねよねげんまいの影響力の強さがよくわかる。
同じようなことが働いてる会社でも起きた。ある有名な文化人が「とても面白い本だった」とツイートしたのち,たちまち増刷が重なった。私は日本各地で本を手売りするような仕事も時々するんだけど,そのツイートが投稿されてしばらくの間は,その本は本当に飛ぶように売れた。「○○さん(文化人の名前)の本ありますか?」と何回も聞かれた。ツイートだけ読んで,だれが書いたかなんてどうだっていいのだ。まあ,買ってくれればなにも文句はない。
こういうことは偶発的なことだと捉えられるかもしれないが,絶対に戦略的にやる方がいいと思う。まず,出版社はありえないくらい宣伝をがんばらない。執筆者自身の宣伝にフリーライドしている傾向がある。執筆者が著名もしくはSNSが上手な人なら成立するかもねくらいの感じだと思う。だったら,よねよねげんまいとか常田大希とか,高比良くるまとかバキ童とかに広告塔になってもらえばいいじゃん,お抱えにしちゃえばいいじゃん,インタビューかなんかで喋ってもらえばいいじゃんと思う。
中央線グリーン車には広告ないのがうれしくて、YouTube Premiumの気分で乗ってる。
従来ヒカキンを見るかどうかって任意だったはずなのに、電車移動のたびに強制ヒカキンTRAIN TVになってからいよいよ耐えられない!
隙あらば広告、ほんとやめて。もっとひとりにしてほしい。
この映像つくるのために残業してる人がいると思うと気が滅入る、てか数カ月前までのわたしはこういった類の広告の映像をつくるために徹夜したり、していた(T . T)
仕事から離れてからはすごく悲しくなったり寂しくなったりすることは減りつつある🆗
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シェアハウスの玄関あけたらバニラエッセンスの香りで、ほとんどしゃべったことない女子たちがキッチンで彼氏にあげるバレンタインの予行練習してた。
ぼんやり生活してる空間で他人の生活(および人生)垣間見れるの、やっぱシェアハウスたまらない。
いま住んでるシェアハウスは業者仲介型で女16人住み、その大半が20代前半で同年代。シェア用に建てられた物件で、それぞれに洗面台付きの個室があり、共有のリビングとキッチン、あと風呂とトイレが2つずつある。
16人ってちょうど中学校の時のひとクラス分の女子の人数と同じだからか、共有スペースにいるとちょっと学校を思い出す。
バレンタインやってる女子たちは古参の住人で4人グループ。リビングにいるときはいつも彼氏かディズニーかアイドルの話をしており、テレビをつけてバラエティ流してる。彼女たちは仲間以外とはほとんど話さなくて、単体でいるときはノイズキャンセリングイヤホンをしており、こちらが挨拶しても聞こえてない感じを出しくる。最初はわたしだけが嫌われているのかと思っていたんだけど、どうやら仲間以外のすべての住人に対してこうっぽい。人見知り、とのことだが挨拶はしてほしい。その方が一緒の空間に居やすいから。
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剥げてたネイルをオフして就寝。寝るときはいつも朝起きられるか不安!
(0201の続き)
ここでいうナラティヴとは、研究者自身がその研究に取り組む動機や、主張がもたらす社会的・個人的な意義を含む物語性のことだ。事実とロジックだけなら、原理的には誰でも同じものを書ける。だが、それでもなお、ほかでもない「あなた」がその論文を書いた理由はなぜなのか? ここを説明する必要が出てくる。要するに「はじめに」と「おわりに」の比重が大きくなるのだ。
「はじめに」「おわりに」の説得力を考慮しないと論文の数が増えすぎる。論文の数が増えすぎると、研究者は自分の研究分野に関連する論文を読みきれなくなり、同じような主張の論文が無為に再生産されつづけることになりかねない。もし人文学研究が今後も論文を評価しつづけるのだとすれば、「はじめに」「おわりに」の個人的な物語=ナラティヴを評価することでしか、人間の能力の限界内における研究としては不可能になってしまうだろう。
インターネットによって事実は民主化された。ほとんどの情報に誰でも手軽にアクセスできるようになった。だが論理的思考力としてのロジックは個々人の能力なのだから、民主化されえないように思われた──賢者と愚者には常に隔てられたままでいるかのようだった。だが、AIはロジックを民主化する。みなが賢者になるとき、最後のフロンティアは学問の客観性からは排除されてきたナラティヴである。このフロンティア=境界地帯において、人文学はなおも「学」であり続けられるだろうか?あり続けられるとすれば、どのような意味でそれは「学」なのだろうか?
哲学と訳されるphilosophyには、たとえば生物学biologyや地質学geologyに見られるような“logy”=「学」が含まれていない。Philosophyはフィリア(愛)-ソフィア(知)、すなわち知への愛を意味する。愛することは、たとえそれが形式において普遍的なものだとしても、当の行為を担うのは個別の担い手でしかありえない。だとすれば、そもそも哲学は普遍性を志向していないかもしれない。少なくとも、普遍性から漏れるような何事かを語ることが許されているし、語らなければいないのだろう。その意味で哲学は「学」ではない。元来、「学」に属さない何事かによって、知への愛を示さなければいけなかったのだ。テクノロジーがその余地を開いてくれているのだとすれば、それは好ましいことである。AI: Artificial Intelligenceが哲学のうちに愛(アイ)の領域を確保してくれるのだから。
ところで、フランス語で哲学を学ぶ僕にとって事情は同じなのだろうか? IA: Intelligence Artificielleと愛を逆さまに読まなければならない僕にとっても?
一緒にPodcast『人間生活』をやっている相方、「現代人」(※固有名詞である)がAIの研究をしていることもあってか、AIの進化と能力について耳にする機会が多い。実際、1年前とは比べ物にならないほどに賢くなっているのを感じる。Chat GPTが出てきた当初は「情報が間違っている」だの「同じ間違いを繰り返す」だの、その未熟さが目立っていた(し、現在もある程度同様の脆弱性はある)。だが、最近のモデルは非常に論理的で、そのへんの人間よりも遥かにクリティカルな推論を展開する。これを使わない手はない。
日常的に色々な場面で活用している。たとえば、メールの文面を作ってもらったり、英文の添削をしてもらったり、タスクの整理を手伝ってもらったりしている。「〜してもらったり」という表現からもわかるように、完全に秘書として扱っている。20ドルの(安すぎる)月給も払ってるし。「秘書」を使ってみて思うのは、使いこなすのはかなり難しいのだろうということだ。というのも、僕はかなりいい具合に使えている実感があるのだが──とはいえさらに使いこなす余地は僕の気づいていないところにいくらでもあるのだろう──、それは今までの経験で培ったスキルがあるからではないかと思うのだ。主に2つのスキルが役に立っている自覚がある。
①プログラミング
小学生の頃、雨で校庭に出られないとき、教室のパソコンを借りて友達とプログラミングをして遊んでいた。普通の公立の小学校だったが、まったく荒れておらず、わりあい自由にさせてくれていたのだ。完全に独学で(ネットでやり方を調べる、という当時の小学生としては先進的なことをやっていたと思う)、エクセルでできてしまうような簡単なコードを書いていただけなのだが、しかしここで学んだことは大きい。僕はここで「全部説明する」という感覚を身につけた。コンピューターは意図を汲んでくれない。隅から隅まで指示を出さないとバグを起こす。実行してほしいプログラムに穴を作らないためには、全部説明しなければならない。そういう言語感覚は「秘書」を使う上で大いに役に立っている。「秘書」は当時のプログラミングよりは遥かに意を汲んでくれるが、しかし丁寧に指示を出すことで、レスポンスの精度も上がる。
②リーダーシップ
中高の文化祭や合唱コンクールなどで、僕はクラス委員を務めることが多かった。理由は簡単で、人に指示されるのが耐えられなかったからだ。にもかかわらず、本だけ読んでいればいい、というような内向性が発達した人間でもなく、行事は大好きだったのだ。クラス委員は、言うまでもなく、クラス全体をまとめる仕事だ。ところで、クラス全体で目指すゴール(文化祭のクラス企画、高クオリティの合唱など)は、僕一人では到底達しえないスケールのものである。みんなでやることに意義がある。そして、クラスには僕よりも遥かに個々の能力に秀でた人がいる。絵を描くのが上手い人、ムードを明るくできる人、タスクに高速で着手できる人……エトセトラ。彼らの力を使って全体を前に進めるのがリーダーの仕事だ。さて、AIの処理能力は圧倒的に人間よりも高い。自分よりも能力の高い「秘書」を使って目的地まで効率的に到達する営みは、リーダーの仕事と非常に似ている。リーダーとしてメンバーにタスクを割り当てるのと同様に、僕はAIにタスクを与えている。
以上のような現実世界での経験が(たまたま)あるからAIを使うのに苦労しないが、たとえば小学生の時分から下手にAIに頼っていると、上手く使いこなすスキルが磨かれないままにAIと付き合うことになってしまうのではないか。大局的に見れば、自分の手で獲得した能力に勝るものはない。だが、AIは能力の獲得を阻むツールになりうる。
かく言う僕も、すでに能力の衰退の兆しを感じさせられている。哲学の研究をするにあたって論文を読む必要があるのだが、最近はAIに読ませて、僕は内容について知りたいことを質問するだけだ。論文全体をざっくり読む、みたいな能力はどんどん衰えていくだろう。
研究においてAIを最も活用している場面は、論文を読む時ではない。原典を読む時だ。僕の場合はデリダのテクストを読む時に使っている。フランス語のPDFをAIに読み込ませて、同じ箇所を読んでAIと議論している。ある概念や文をめぐって、解釈を練り上げるのに活用している。「XXという概念を〜〜というふうに解釈できるだろうか?」と問いかけると、AIは実際にテクストの中から適切な箇所を引用して応答してくれる。いわば「ゼミ」を僕とAIとで開催している形なのだが、これが非常に捗る。自力では1カ月以上かかるような解釈にたった1日で辿り着けたりする。あまりにも迅速にレスポンスが返ってきて拍子抜けする。文献解釈を基軸とする人文学は、人間の読解能力の有限性に依存していたのではないかと思わせる。読める速度や量、強度に限界があるからこそ、各々の研究者が各々に解釈を展開する余地があった。だが、AIが人間の限界を突破してしまえば、十分に説得的な解釈はAIが無限に提示してくれるし、原典に矛盾があるならそれさえも指摘してくれるだろう。
AIの進歩によって人文学の論文の生産量は原理的には爆増するだろう。そうなると個々の研究分野において読むべき文献は増え、人間に処理できる量を超える。人はますます読まなくなる。これは人文学の衰退に直結しかねない。悲観的すぎるだろうか?しかしひとまず、この未来予想にしたがって人文学を考えてみる。この衰退をいかに阻止できるだろうか。
論文とは、ある主張を説得的に示す文章だ。説得的であるためには、事実とロジックが強固でなければならない。だが、事実とロジックに関してはAIは人間を凌駕する。となると、事実とロジックに依拠する説得力のハードルを超えるのは非常に容易になるはずだ。そのとき、さらなる説得力が要求されるようになるのではないか?
さらなる説得力を支えるのが、ナラティヴである。(0202へ続く)