ブログは不特定の誰かを想定したものか?

野口裕二『ナラティヴ・アプローチ』(勁草書房、2009年)の序章では、ナラティヴに関する先行研究を整理するかたちで、「ナラティヴ」の3つの特性──時間性、意味性、社会性──を提示している。今回着目したいのは、ナラティヴの社会性である。ナラティヴは社会的な文脈の中に置かれている。語ることや物語、すなわちナラティヴは、「語り手と聞き手の共同作業によって成立する社会的な行為であり、社会的な産物である」(野口、2009 p.10)。次のように続けられる。

したがって、聞き手として誰が想定されているかはナラティヴの重要な要素である。日記のように自分を聞き手に想定したもの、ブログのように不特定の誰かを想定したものなど、想定された聞き手との関係において個々のナラティヴを考察する必要がある。(野口、2009 p.10)

この野口(2009)の提案を歓迎し、これからsaloonするいくつかの文章では、ブログについて考えてみたい。さまざまなブログの中にあるナラティヴを分析するというよりは、ナラティヴ・アプローチの視点から(あるいは別のやり方で)、ブログとブログを書くこと・読むことについて検討してみたい。さしあたり、次のような問いを立ててみたい。わたしはブログをどのように考えているのか?

さっそく、重箱の隅をつついてみよう。野口(2009 p.10)は、社会的な行為あるいは産物としてのナラティヴを論じる中で、「不特定の誰かを想定したもの」としてブログを例示している。しかし、このことは、わたしの経験とは反している。

わたしはブログを書くとき、しばしば特定の誰かを想定している。いわゆる想定読者、カタカナを用いるとターゲット・オーディエンスを設定している。これは、ある属性や関心という観点で共通する複数人のオーディエンスを想定することもあれば、明確にただひとりに宛てるかたちで書くこともある。あるいは、今後読むであろう自分に向けてブログという形式で書き残しておくという場合もある。いずれにしても、強弱はあるにせよ、どのような人に読んでもらいたいか考えながらブログを書いている。読み手との社会的な文脈の中にブログを置こうとしている。このような意味で、ブログが「不特定の誰かを想定したもの」になることはない。

だったら私信でもいいのでは? たしかにその通りである。とりわけ特定の人物に宛てた指針としての文章であれば、わざわざブログにしなくてもよくて、DMやLINEや電子メールや手紙で直接(それこそダイレクトに)届ければいい。ただ一方で、わたしはこのようにも考える。せっかく文章を書いたのであれば、より多くの人にも読んでもらいたい。キモすぎる。このような経緯を経て、(少なくとも)わたしのブログは、読み手が想定されているのにもかかわらず、社会的な文脈の中に無理やり埋め込まれていく。想定していなかった読者にも届き、別の仕方で解釈されていく。こうやって考えてみると、ブログは、書き手としては特定の誰かを想定している一方で、結果としては不特定の誰かに解釈されていく(あるいは届かない)。片方の極に二者関係の対話を、もう片方の極にいわゆるマスメディアを置いてみると、ブログはその中間に位置づけられるかもしれない、でも位置づけられたとてそれがどうしたという話もある。これについては保留でいきます。

まとめると、わたしはブログを不特定の誰かを想定したものとは考えてはいない。とくに、ブログを書くときには、(ある程度)特定のオーディエンスを想像している。では一方で、ブログを読むときにはどのようなことを考えているのか? ブログを読まれるというのはどのような経験なのか? ブログを書く経験とはなにを意味しているのか? このようなトピックについてはこれから考えてみたい。

💫

半年前、zonbipoさんからsaloonへの寄稿を打診されたのと同じタイミングで、1冊の書籍──アンガス・フレッチャー『世界はナラティブでできている:なぜ物語思考が重要なのか』(青土社、2024年)──を贈ってもらった。それから数カ月が経って、このウェブサイトのコンセプトとして「ナラティヴ」というキーワードが提示された。彼から直接伝えられたというわけでなくて、Aboutページが更新されただけであるが、それまでの彼によるsaloonへの投稿やツイキャスでの発言内容を考慮すると、突然そのキーワードが思い浮かんだというよりは、いくつかの逡巡の結果その一語に収斂していったのかなと想像していた。とにかく、ナラティヴというコンセプトになったということだけわかった。わかったというだけで、僕がsaloonするときはあいかわらず日記のようなエッセイのようなものを提出していた。

やや話が変わるけど、僕が専攻している組織論ひいては社会科学の分野の中の、とくに定性研究における研究方法のひとつとして「ナラティヴ・アプローチ」というものがある。これがけっこう厄介で、具体的になにをしているのか把握しきれない。たとえば、組織論だと、経営組織で共有される物語を探索したり、組織改革を成功に導く語りを特定したりするみたい(ちょっとまだ僕の人生とは関係なさそう!)。このようなナラティヴ・アプローチに関する入門書的な文献として、冒頭で紹介した野口(2009)を見つけた。強引に結びつけようとすると、「ナラティヴ」というのが、zonbipoさんにとってご自身の運営するウェブサイトのコンセプトである一方で、僕にとって関心のある定性研究の分野におけるイマイチよくわかってない手法であるということになる。つまり僕もナラティヴに関心があるということです。勝手に問題意識を共有しました。

ひとつめのブログを立ち上げたのは中学1年生の冬で、今はふたつめのブログを更新している。ブログをはじめてからちょうど10年ほどが経過したということになります。僕がブログにどうしても書けないもののひとつに、ブログを書くことや読むことに関連するトピックというものがある。年齢ないし世代の割に長い間ブログをやってきた体験を、自分の言葉で意味づけしたいという気持ちが大きくなってきたので、(少なくとも僕にとっては)ブログではないこのsaloonというウェブサイトに投稿してみることにしました。以上が、このsaloonを書くことになった経緯。コンセプトに対してちょっと直接的すぎますかね。一旦これでいきます。