楽しかった 一枚の 紙を焼く/中村冨二
常識、というやつがいかにして現代川柳やヴェイパーウェイヴにつながるのか、みたいなことを書こう、書こうと思っていたら、どこから手を付けたものか分からなくなってしまった。
どうしたもんか……。と思っているうちに日は過ぎ、チェルフィッチュさんの舞台『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』を見る日が来た。
チェルフィッチュ『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』

「ノン・ネイティブ日本語話者との演劇プロジェクト」とのことで、出演される俳優さん7人のうち4人が日本語を母語としない人で演じられる劇だった。
日本語を母語としない俳優さんたちには普段俳優をしていない人もいて、ワークショップを通じて集まったらしい。ワークショップでは「お話し会」なる、自分の身の回りの出来事、たとえば住んでいた家のことを思い出しながら説明し、それを聞いた人が今度はひとのそれを、自分のことのように想像しながら説明する、というようなことを繰り返しやっていたそうだ*1。
製作会社さんのサイトにあった概要*2によると、
「ドイツの劇場の創作現場で、非ネイティブの俳優が言語の流暢さではなく本質的な演技力に対して評価されるのを目の当たりにした岡田利規(チェルフィッチュさんのご主宰、この舞台の作・演出をされている方)は、一般的に正しいとされる日本語が優位にある日本語演劇のありようを疑い、日本語の可能性を開くべく、日本語を母語としない俳優との協働を構想しました」
とのこと。
さらに岡田さんの言葉を引いてみる*3。岡田さんによれば「今回のプロジェクトは「日本語」についてのプロジェクトであ」り、「それと言うのも、これまで舞台上で聞く(ネイティブによる)日本語がすごく“硬直”している、“形骸化”しているなと思うことが多々あったからです」
「簡単に言えば、聞いていてセリフが自然に耳に入ってこないようなことがたびたびあったということです」
「ネイティブの話者にはこう書かれていたらこのように言えば自然に聞こえるだろうといった予定調和の前提があって、そこにネイティブの自然なイントネーションがのると、俳優たちはそれでよし、としてしまうのです。しかし実際には観客にはあまりその日本語が入ってこない、ということがあると思うのです」
観劇後にこれを読んで、たしかにそうだった、と思った。
劇の本編はSFだった。
ある言語の衰退を食い止めるべく、地球外の知的生命体にその言語を伝えんと宇宙を航行するイン・ビトゥイーン号。その船内で、4人の乗組員(日本語を母語としない俳優さんたち)と作業ロボット(日本語を母語とする俳優さん、けれどロボットらしく抑揚なくしゃべる)、そして航行の途中で船内に現れた高度知的生命体(日本語を母語とする俳優さん、けれど超思弁的な、日本語だけど聞き取れないと思わせる口調でしゃべる)がいろんな話をする……。というとあらすじにしてもざっくりしすぎかな。
いろんな話のつながりで筋が辿られていくかんじで、言葉という意味ではここへもうひとつ、コーヒーマシーンやドアの開閉といった、機械の合成音声も入ってくる。つまり観客は、
・日本語を母語としない俳優さんのいわゆる片言の日本語と、
・日本語を母語とする俳優さんの抑揚のない日本語と、
・日本語を母語とする俳優さんのふつうに聞いても意味が取りづらい日本語と、
・合成音声の日本語と、
を聞くことになる。
こう書くとなんだかややこしいことをさせられてたように見えるけど、こんなにややこしいやり取りを見ていた、という気はいっさいしなかった。
発音の具合で何を言ったか分からなかったことはあれど(それも英語字幕で確かめたらやたら難しい単語だったりした)、「聞いていてセリフが自然に耳に入ってこない」ことは、たしかに無かった。「予定調和」が除かれているため、聞き取ろうとしないと聞こえないかも、というスリルをもっていたから、とも言えるかもしれない。初めこそそうだったかもしれない。けれどそこを経て時間が経つと、聞く方は本来これくらい聞かないと(もっと言えば劇側からそれを誘わないと)いけなかったんじゃないか、というくらいにことばを聞いて、想像することをしていた。聞く/見る側にも「予定調和」は染み付いていたらしい。それに気づいたのはかなり大きかった。
ただ、そう気づけたのがこの試みのおかげだったのか、俳優さんたちの発音がどうしても日本語母語話者のそれよりは不安定だったので、より聞き耳を立てていたからなのかは、いまははっきりと言えない。たぶんどちらもあった。これはこういった試みがより一般的になって、見慣れられることによって整理されていくことだと思う。
このプロジェクトの途中で岡田さんと劇評家の方たちが開いたトークイベントの動画*4を見て、さらに気づきが整理できた。
動画の中で岡田さんは、想像を強く持っている人が発すると、その人の行動・ことばを通してその想像が見えることがあり、そういうときはその人が発することばを聞いて、行動を見て、ということをいちいち意識していない、と話していた。またそういうことが起こるためには、流暢な発声よりも想像が重要で、そのためにも硬直した/矯正されたことばをオープンにすることが必要なんじゃないか、とも。
あーっ、と思った。この“硬直した/矯正されたことば”って、「常識」って名前で言おうとしてたことの要素そのものだ!
前回までかんがえてきたとおり、匿名性が現代川柳やヴェイパーウェイヴに持たせたものが余白なのだとすると、その余白はなんとなれば受け手の想像のための余白なわけで、それはひいては、作り手と受け手の間の「予定調和」を脱ぐ/脱がすために必要なものだったわけだ。
岡田さんの試みは演劇からのそれだけど、川柳の範囲でこれをやれば現代川柳になり、音楽の範囲でやればヴェイパーウェイヴになる、と思ってもそう間違いないんじゃないか。
そうだ、常識のなにを問題だと思っていたかって、硬直だ、矯正の圧力だ。そしてそれをそれとも意識することなく「予定調和」になずむことだ。
それが常識の面白くないところであり、危険なところであり、魅力だ。誰でも安心したい。でもラクに安心できる方法にろくなものはない。「予定調和」は「予定調和」を共有できるマジョリティと、それ以外とを分けてしまう。そう分かっていても安心したい。集団の生き物だから。社会の生き物だから。社会の内にも外にも脅威が多いから。
は? である。
んなら「予定調和」に沈んで出てくんな、である。
逃げ切りはたやすい。決まった逃げ方なら社会が助けてくれる。でもその逃げ方=生き方に違和感があるから、ノン・ネイティブ日本語話者との演劇が計画される。現代川柳がうまれる。ヴェイパーウェイヴが再生される。そのすべてを想像が支えている。もっとよく読むこと、もっとよく聞くことが支えている。
こんな簡単なことができなくなりたくなくてもがいている。お話しし合う。ゆらゆら、踊っている。わたしはあなたじゃない。あなたはわたしじゃない。それって最高じゃん。って死ぬまで心から言えるように、現代川柳は今日もあなたから数秒遅れ、ヴェイパーウェイヴは乱暴に反復し続け、ぶつ切れる。
同じことばかり書くようになってきた気がする。
ということは、このテーマも煮詰まって来たということだと思う。
「現代川柳はヴェイパーウェイヴか」、というどろにえさん由来のはじめの問いに、答えは出たんだろうか?
次回、最終回。まとめます。
*1 chelfitsch/岡田利規さんのnote「言葉がきこえる声、あるいは想像のヴァイブレーションーノン・ネイティブ日本語話者との演劇プロジェクト特集②」(https://note.com/chelfitsch_note/n/n4378e4155e36?magazine_key=mebe378733eca)より。演出助手の山本ジャスティン伊等さんによる現場レポート。↩
*2 製作会社precogさんのサイト「ノン・ネイティブ日本語話者との演劇プロジェクト『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』」(https://precog-jp.net/works/in-between/)より。↩
*3 jstagesさんの記事「「宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓」境界を超えて、その先へ」(https://jstages.com/2023/07/%e3%80%8c%e5%ae%87%e5%ae%99%e8%88%b9%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%bb%e3%83%93%e3%83%88%e3%82%a5%e3%82%a4%e3%83%bc%e3%83%b3%e5%8f%b7%e3%81%ae%e7%aa%93%e3%80%8d-%e5%a2%83%e7%95%8c%e3%82%92%e8%b6%85%e3%81%88/#_msocom_1)
より。↩
*4 「【トークイベント】チェルフィッチュによるノン・ネイティブ日本語話者との演劇プロジェクトについて考える」(https://www.youtube.com/watch?v=53gEzFUim5c)。↩