鼠はおそろしく本を読まない。彼がスポーツ新聞とダイレクト・メール以外の活字を読んでいるところにお目にかかったことはない。僕が時折時間潰しに読んでいる本を、彼はいつもまるで蠅が蠅叩きを眺めるように物珍しそうにのぞきこんだ。
「何故本なんて読む?」
「何故ビールなんて飲む?」
僕は酢漬けの鯵と野菜サラダを一口ずつ交互に食べながら、鼠の方も見ずにそう訊き返した。鼠はそれについてずっと考え込んでいたが、5分ばかり後で口を開いた。
「ビールの良いところはね、全部小便になって出ちまうことだね。ワン・アウト一塁ダブル・プレー、何も残りゃしない1。」
これだけ世に広く知れ渡っている作品を、今更我が物顔で自分の文章に流用するのは気恥ずかしいところもあるのだが、恥を忍んで「鼠」の比喩を借りるとすれば、これまで酒を飲むことに多くの時間を費やしてきた僕は、まさに「ワン・アウト一塁ダブル・プレー」で、酒を飲まない人との点差をどんどん広げられてきたのだろう。
19歳から今に至るまで「何をしてきたのか?」と訊かれると、「酒を飲んできた」としか答えようがない。
そしてその結果、やはり僕の手元には何も残りゃしなかった。
それらの日々は全部小便になって出ちまったわけであり、数多くのものをそうやって小便と共にトイレに流してきたんだと思う。
わかりやすい例としてお金がある。
息をするように飲んでいたって、空気と違って酒はタダじゃない。
「あそこにベンツが停まってますね」「もしあなたが煙草を吸わなければ、あれくらい買えたんですよ」、なんてジョークがあるが、飲酒も喫煙と同じで、長年習慣として続けていれば、そのお金で外車を買うことくらいわけないだろう。
僕は合法的に酒を飲めるようになってから六年かそこらだが、それでも既に軽自動車くらいなら余裕で新車を買えるはずだ。
そういえば先日、大学時代の友人と三人で飲んでいる時、「一人暮らしの食費」について話が及んだのだが、友人の一人が、食費は日に1,000円ちょっとあればなんとかなる。と言っていた。
これはちょっと驚きである。
僕は何も、毎日外食をして新しいお店を開拓しているわけでもなければ、毎夜お取り寄せグルメに舌鼓を打っているようなこともない。なんなら節約の観点から、コンビニの惣菜を買うことすら避けてしまうくらいの人間だ。
加えて、普段朝食を取る習慣がなく、昼も抜いてしまうことが多い(食べたとしても会社で配られるお菓子を二、三個口にするくらいだ)。つまるところ、夕飯にしか金を使っていないのだが、それでも一日の食費が1,000円では心もとない。
一方で、その友人も特別食に金をかけている風ではなかったが、かと言ってそこまで切り詰めているようにも見えず、基本的には毎日三食欠かさず食い、そのほとんど全てがコンビニ飯だそうだが、それでも食費は1,000円/日くらいで済んでいるらしかった。
「だって、コンビニでロング缶のチューハイを三本も買ってしまったら、それだけで500円は超えてしまうし、それにチルドの惣菜を二つも付けたら、1,000円なんてあっという間じゃないか」などと不思議に思っていたところ、どうやら彼の勘定には酒代が入っていないらしかった。
彼は普段、一人で飲む習慣がないらしく、夕飯は弁当を一つ買えばそれで済むらしい。
他方、僕は毎日飲むので、弁当一つ買って終わり。ということにはできない。
酒を買う必要があるのはもちろんのこと、複数のをちょっとずつつまんだあと、最後に何か炭水化物を一品食べて〆る、というような食生活をしているので、どうしたって食費がむ。
まあ僕の場合は、毎日飲むと言っても、家で一人で飲んでいるだけだから、大した額にはならないのだが、それでも食費はランニングコストなので、いずれは大きな差になるだろう。塵も積もれば山となる、だ。
お金の他に喪ったものとして、健康がある。
もし、「飲酒の習慣がある人の方が平均寿命が長い」とか、「酒を飲まない人に比べて〇〇病のリスクが低下する」、といったデータがあれば、多少金をかけてでも積極的に飲酒をする価値があるのだが、残念ながらそんなデータは存在しない。飲酒は身体に悪い。これは確かである。酒は百薬の長ではないらしい。
ただ、正直に言って、飲酒による健康被害については、今のところ実感が湧かない。
もちろん、飲み過ぎた翌日の苦しみは、誰よりも身に染みているつもりだ。ひどい頭痛で起き上がることもままならないのに、それでもゲロを吐くために何度もトイレに這っていくのは本当につらい体験だ。
それでも、時間が経てばそれが治ることを知っているし、朝起きた時に「もう一生酒なんて飲まない」なんて思っていても、その日の夕方頃になれば、また飲みたくなってくることも知っている。二日酔いのつらさくらいでは、僕の飲酒は止められない。
僕は先を見通す力に欠けているので、今この瞬間に体感できていない苦しみは、どうしたって見くびってしまう。健康診断で肝臓の数値を注意されたとしても、実際に臓器が痛みでもしない限り、どうも実感が沸かない。
これまた塵も積もればなんとやらで、このしわ寄せは近い将来必ずやって来るのだろう。
しかし今のところは無害である。
この例えが正しいかわからないが、少年マンガなんかに登場する、「身体への負荷が大き過ぎる大技」とか「寿命を削ってパワーアップする能力」に近いものを感じている。古い例だが、僕にとっては『ドラゴンボール』の界王拳がそれだ。読者からすると、いくら身体に負荷をかけて、寿命を削ったところで、どうせ主人公が死なないことがわかっているので、正直「使い得」な力に見えてしまう。強敵にまみえる度、最初から界王拳使えよ。とか思ってしまう。
同じように、どうせ二日酔いなんて一日で治るんだから、酒は「飲み得」だと思ってしまう。今すぐに死ぬわけじゃないんだから、健康なんか気にせず飲めよ、と。
まあ、身体に全くガタが来ていないといえば嘘になる。
眠りが浅くなったり、太りやすくなったり、毎朝足がつったり、尿の頻度が多くなったり、年々身体の不調は増えてきている。
ただ、それが酒のせいなのかわからない。
単に加齢によるもののような気がしている。
年を重ねるに連れて身体に不調が出てくるのは当然のことだ。成長期じゃないんだから、いくら健康的な生活を心掛けていたって、これから体調が良くなっていくなんてことはないだろう。
しかし、そう、確かに年を取ったのだ。
ぼーっと酒を飲んでいる間に、短くない時間が経過したのは間違いない。
飲酒によって喪った最も大きなものは、時間かもしれない。
そういえば大学生の頃も、毎晩酒で記憶をなくし、その翌日は夕方頃まで寝込んでいる、というような生活をしていたせいで、4年あったはずの大学生活が、体感半分くらいの長さで去っていった。
今でも毎日5時間くらいは酒を飲むことに割いている。普段は19:00~20:00くらいに帰宅して、できれば日付が変わる頃には布団に入るようにしているのだが、その間は基本的にずっと酒を飲んでいる。
一人で酒を飲む習慣がない人は、この時間に何をして過ごしているのだろうか。もしかしたら勉強でもしているのかもしれない。なるほど、道理でみんな僕の知らないことをよく知っているわけだ。
改めて考えてみると、毎日5時間とはとんでもない時間だ。高校の部活動でも今どきここまでストイックにやっているところは珍しいだろう。なんならスポーツ庁が打ち出したガイドラインには、「1日の活動時間は、長くとも平日では2時間程度、学校の休業日(学期中の週末を含む)は3時間程度とし、できるだけ短時間に、合理的でかつ効率的・効果的な活動を行う」と記されている。どうやら僕はそこらの運動部よりもかなりストイックに飲酒をしているらしい。この時間を使って習い事の一つでもしていれば、それなりの一芸が身についたかもしれない。
「1万時間の法則」なんてものが嘯かれているが、毎日欠かさず5時間取り組めば、大体5年半で1万時間を達成できる計算になる。
僕はちょうど今年で26歳になったので、20歳から飲み始めたと考えれば、1万時間を達成したことになる。飲酒のプロフェッショナルだ。なんなら、学生の頃は今よりもっと飲んでいたわけだし、二日酔いで寝込んでいる時間なんかも加味すれば、1万時間なんてわけない。その倍くらいは余裕で使っているだろう。
もし、酒を飲まない人生であれば、僕は死ぬまでに十個ぐらいの分野でプロとして活躍できていたかもしれない。もちろんベンツを所持したうえで。
「若者のアルコール離れ」なんてトピックが叫ばれるようになって久しいが、大いに納得できる傾向だ。飲酒という行為はコスパやタイパの良さとは程遠い。
現代人の多くが、スキルアップのために学校に通ったりテキストを解いたりしている。あるいは健康維持のためにスポーツジムに通ったりしている。金を稼ぐためには時間と健康を消費する必要がある。健康を保つためは時間と金を割く必要がある。どれも大切なものだ。僕は金と時間をドブに捨てて、わざわざ身体に悪いことをしている。正気の沙汰じゃない。
その他にも、尊厳やら恥やら、金や時間に換算できない類のものもたくさん喪ってしまった。酒に酔って醜態を晒した回数は数えきれない。酒を飲むことによって、元から低い他者からの評価が更に下落していることは間違いない。そしてそのことに慣れてしまった。
昔は、記憶をなくした翌日には、一々気分が沈んで、昨夜の飲み過ぎを反省していたのだが、今では慣れっこである。飲酒は記憶をなくしてなんぼ。とまでは思っていないが、無事に家に帰れているのであればなんだっていいとは思っている。少なくとも反省はしない。他にも、昔は酔っている自分の姿を収めた動画なんかを目にした時には、ひやっとしたものだが、それもなんとも思わなくなった。
かなり図太くなってきた気がする。
この図太さは、唯一酒を飲むことによって手に入れたものかもしれない。
あるいは、これもまた、単に年を取っただけかもしれない。
そういえば、大学を卒業したあたりから、居酒屋に一人で入ることに抵抗を感じなくなった。
大学生の頃はそもそも一人で居酒屋に入ること自体あまりなかったのだが、たまに入った時にはいつも居心地の悪さを感じていた。店に入ると、店主がこちらに不思議そうな顔を向けているような気がした。「ガキが何しに来たんだ?」みたいな視線のときもあれば「若い子が来てくれるなんて嬉しいね」みたいなときもあるが、まあ、下に見られている時点でどちらも変わらない。自意識過剰だったこともあるだろう。自分でも、ガキが背伸びしている感じというか、無理している感じが拭いきれなかった。
今では外見も内面も一端のおっさんなので、店側も一人のおっさんとして接してくれるし、自分でも場違いなところにいるとは感じない。
反対に、大学生の頃によく行っていたチェーンの居酒屋なんかでは飲みづらくなってきた。周りの客が大学生ばかりで肩身が狭い。というのもそうだが、ホールスタッフの多くが学生バイトだったりする。年下の店員さんに接客をしてもらっていると、なんだか軽い負い目というか、居心地の悪さを感じる。おっさんの相手をさせちゃってすまないね。みたいな。
しかし、これからどんどん年を取っていくわけだから、この感じにも慣れていかなければならないのだろう。年を取るということは、それだけ世の中の自分よりも若い人の割合が増えていくということだ。原則として、年上は先に死ぬ。だから年上の店主が営む店はどんどん減っていく。酒を飲む飲まないに限らず、喪われていくものはある。仕方がないことだ。
最後にもう一つ、喪ってしまったものというか、忘れてしまったこととして、「食事をする=酒を飲む」という生活を続けているせいか、アルコールのない食事の楽しみ方を忘れてしまった。
一部の酒飲みは共感してくれると思うが、そもそも、食事を楽しむために酒を飲んでいるというよりは、酒を楽しむために飯を食っているようなところがある。一人で外食なんかをするときに、居酒屋に入ることは多いが、喫茶店に入ることは滅多にない。定食屋は好きだが、それは瓶ビールありきの魅力である。ラーメンは飲みの〆で食う分には美味いが、昼食にラーメン屋に入ることはない。
もっと言えば、酒を飲まない夜の過ごし方を忘れてしまった。
今では考えられないが、子どもの頃には、当然酒なんて飲んでいなかったわけだから、夕食時には親が作ってくれたカレーかなんかを一皿食べてそれで終わりだったはずだ。小さかった頃は食事の度に両親から注意するくらいに早食いだったので、親が作ってくれた料理を平らげるのに、きっと5分もかからなかっただろう。
その後の時間を、僕はどう過ごしていたのだろうか。
家で宿題なんてやるような殊勝な子どもではなかったから、大方ゲームでもしていたか、あるいはテレビを観ていたのだろう。子どもの頃の僕は、本当にひっきりなしにテレビを観ていたような気がする。
当時のその熱中具合はちょっと羨ましいところがあるが、その時間が特に有意義だったとは思えない。酒を飲みながらYouTubeやらU-NEXTやらを見ている今とどっこいどっこいな気がする。
先述の通り、僕は先を見通す力に欠けているので、将来の病気のこととかを考えられない。
同じように、僕は今体感している幸せしか真に感じることができない。
楽しかった思い出を抱えていれば、それだけで一生満たされるなんてことはありえない。カレーを食って、テレビを観ていた時間は確かに楽しかったが、残念ながらそれによって今の僕が何らかの幸福を感じることはない。
だから、昨日より今日、といった具合に、常に今が一番幸せであって欲しい。
緩やかなインフレが好まれているように、僕は緩やかに幸福であり続けたい。
その一助になるのであれば、時間というグラスに酒を注ぎ続けるのも、そう悪くない選択なのかもしれない。
脚 注
- 村上春樹『風の歌を聴け』(1979、講談社) ↩︎