復讐者は賛美する─『復讐するは我にあり』─

がたけん演じる主人公──えのきいわおが、自身を拘束した警察官数名に対し「留置場はよう冷えとるじゃろうね/どかーんと冷えとるじゃろうね、留置所は──」と呟くシーンから、この映画は幕を開ける。

この映画の主人公・榎津巌は、だいの大悪党である。身分を騙り、の人々から金品をしゅすることはもちろん、自らの利益・快楽の追求のため、人を傷つけることはおろか、殺すことさえいとわない。

この映画のタイトル『復讐するは我にあり』は、榎津のそのような悪行の数々を受けてつけられたもので、聖書の一節がもととなっている。

原文は「愛する者よ、自ら復讐するな。ただ神の怒りに任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我にこれに報いん』とあり」(ローマ人への手紙 12:19 大正改訳聖書)。

がいかつすると、「愛する者達よ。復讐してはいけない。ただ神の怒りに任せなさい。『主はこのように仰られた。“復讐は私のすることだ。私は報いる”』と、聖書に書いてあるからだ。」という意味になる。

つまり『復讐するは我にあり』というタイトルは、「榎津巌に報いを与えられるのは、神だけである」というメッセージを内在したものだということがわかる(現に、当映画の原作小説を手がけた佐木隆三氏は、「自らは主人公と、そのモデルになった人物を否定も肯定もしない」という意味を込めて、このタイトルをつけたことを、当時のキネマ旬報の中で語っている)。

要するに、ここでいう「復讐」とは、榎津巌を対象にしたものだということになる。

しかし、榎津巌が、そうした反社会的行動に走った理由──いわゆる動機に焦点を置くことで、上記のタイトルにも、違った意味が見えてくる。

榎津巌はカトリック系クリスチャンの家庭で生まれ育った。彼の父、しずは、けいけんなクリスチャンとして知られていて──彼の愛情深さ、ひいては信心の深さを疑うものはほとんどいないと言える。

しかしながら鎮雄は、戦時中、自らが所有する船を、軍にきょうしゅつしなかったことが原因で、憲兵から暴力を受けている。暴力に屈した鎮雄がきょうし、天皇陛下への忠誠を誓う様子を、まだ幼かった巌は、なんともいえぬ表情で見つめていた。

我が国において、キリスト教徒は、長きにわたり迫害されてきた。日本におけるキリスト教徒の歴史とは、すなわち、迫害の歴史と言ってもいいかもしれない。しかしながら、何の恥ずかしげもなくとくしん家として振る舞う鎮雄の姿が、巌の目に、どのように映ったかは、想像に難くないはずだ。

幼い巌にとって、鎮雄のその行為は『裏切り』に違いない。

‘悪を耕す者の心には裏切りがある。平和を勧める人の心には喜びがある。’(箴言 12:20)

巌が鎮雄を許せなかったのには、他にもいくつか理由がある。

「よく聞きなさい。種をく人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」(マルコによる福音書 4:3-8)

イエス・キリストが説教の中で、ぐうを用いたことはよく知られている。先に引用したのは、「種を蒔く人」というたとえ話で、キリストはこれについて、以下のように解説を行なっている。

「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこにことが蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のためにかんなんや迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思いわずらいや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」(マルコによる福音書 4:14-20 新共同訳)

鎮雄は、上記の譬え話でいうところの「根のない土地」だと言える。証・御言葉などの、信仰の正当性を裏付けてくれるものがある時は、喜び、つつしんでこれを受け入れるが、これのために迫害を受けたり、誘惑を受けたが最後、すぐに信仰を捨てる。

かといって、鎮雄にその自覚があるかといえば、そうではない。彼は自らを「良い土地」と信じて疑わない。その手が罪で汚れているのにも関わらず、堂々とした面持ちで、石を投げ続ける男──それが鎮雄なのだ。

巌は、鎮雄のそういったまんや矛盾を許すことができなかった──これが巌の反社会的行動の動機であることは、疑いようがない。

終盤、巌の破門を受け、自らも教会を脱会したことを伝えるため、鎮雄はひとり、拘置所へとおもむく。巌は父に対し「あんたは俺を許さんか知らんが、俺もあんたを許さん/どうせ殺すなら、あんたを殺せばよかったと思うたい」と、闇の中からじゅを吐きかける。依然として、光が当たる場所に居直り続ける父に。

このシーンは、巌の、父に対する憎悪と、そしてそれがどこからきたものなのかを、端的に表している。

自らを、そして神を幾度となく裏切っておきながら、光の当たる場所──“正しい場所”に居直り続ける父を、巌は許すことができず、かといって、殺すこともできなかった。言い換えれば巌は──誰より強く、そして深く、神を信じていたとも言える。ここで、タイトルの聖句に立ち返ろう。

件のせいにおいて、主は以下のように言っている。「復讐は私のすることだ。私は報いる」では、ここで、主は何に報いると言っているのか。──それは、信徒の強い想い・信仰心に他ならない。

‘信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。’(マタイによる福音書 21:22 新共同訳)

つまり、『復讐するは我にあり』というタイトルは──主から巌への、あいとうの言葉として受け取ることもできる。鎮雄に報いを与えるのは、岩尾が成し遂げられなかった復讐を、代わりに行うのは自らであると。