0730
saloonを始めてよかった。いまは何より自分のためになっている。ハイペースであちこちから原稿が届くから,とても気分が良い。私の一番の「趣味」は,他人が書いた文章を読むことなので,このウェブサイトは健康に良い。ツイッターを見る暇がなくなってきた。私にとってsaloonが一番心地良いインターネットになればいいなと思う。ゆくゆくは皆さんにとっても,有益で快適な場所になれば,もう何も言うことはない。
というのは半分理想論で,やはり,他人の時間を奪うことの気持ちよさったらない。saloonにいっぱい時間を落としてくれれば何よりである。
趣味における読書(saloonも広義の読書としておく)の競合相手は,映画鑑賞や音楽鑑賞ではなく,ガーデニングとか,国内旅行とか,まあ,ネットサーフィンとか,一段上の枠組みでの時間の浪費だと思う。ある意味贅沢だと思う。「余暇」って言ってもいいかも。そんな贅沢な他人の余暇をsaloonに使ってくれればそんなに気持ちいいことはないと思う。お金を使って物事を消費することより,私にとっては価値がある。
0727
俺は酒を飲まないんですけど、付き合いで居酒屋に行った時、お会計を割り勘させられるのが本当に、本当に、悔しいです。どうしてそんなことが、許される? みんな、気付いてますよね? おかしいことをしているって、気付いてますよね? あなたですよ、酒飲みながらこれを読んでるあなた。あなた、居酒屋の会計の時、顔が笑っていない下戸の存在に気付いていますよね? お前が見てたのを俺は見てたぞ? 酒を飲む側、つまり自分が損をしていない側だからといって、そんな理不尽、不条理を暗黙の裡に了承していていいんですか? そういうところから世の中に争いが起こってるんじゃないですか?
酒飲みの奴らのテーブルには空のジョッキやグラスが蜂の巣みたいに敷き詰められてる。俺の前のテーブルには飲みかけのカルピスが一杯だけ。飲み食いした料金が違うなんてもう一目瞭然。それに気付いてるのか、気付いてないのか、気付いているのに酔ったふりをしているのか、酒飲みの幹事が赤い顔して「集金!」とか号令をかけて、俺からも同じだけ金を取る。ほんま、俺に拳銃さえあれば、お前が飲み干した大好きなそのグラスと同じようにお前も蜂の巣にしたるねんけど、幸か不幸か日本は銃社会ではないので、毎回幹事をゴッゴゴゴに殴るだけに留まっています。返り血で俺の頬も赤く染まるから俺が一番ベロベロみたいになってるけど、全部覚えてるよ俺は。俺が払わなくても良い筈やった金の端数まで覚えてる。
最近はもう「俺、カルピスしか飲んでないから安くしてよ」って、カルピスのジョッキを片手に持って見せつけるようにしながら言ってる。こんなこと俺もしたくない。何より情けない。なんで毎回カルピスしか飲んでないアピールせなあかんねん。というか、それはお前らが言えよ。「こいつカルピスしか飲んでないから安くしてあげよう」って、お前らが言えよ。ほんで俺が言った時「マジかこいつ」みたいな顔すんな。マジじゃ。俺はカルピスしか飲んでないし、金もその分しか払いません。
「ラストオーダーらしいけど何飲む?」やないねん。お前まだ今来たところのハイボールが満タン残ってるやろ。とりあえずで頼むな。ほんで残すな。誰が払うと思ってんねんそのとりあえずの酒の金。俺まだ席着いて最初に頼んだカルピスが半分残ってんねん。あかん、埒があかん。ちょっと、大人の人呼んで。
0725
夏が明確に始まってから数週間して、エアコンのフィルターを掃除した。設定21度でフル稼働させているのに、いい感じに部屋が夏らしかったからだ。そうめんを茹でている時のキッチンの蒸し暑さはかまわないのだけど、それをリビングで啜る時の涼しさ、その交互浴あってこその心地良さだ。
2年くらい前に買ったきり一度も取り外していなかったフィルターを取り外し、洗い、戻しただけで何もかもが変わった。最高だ。エアコンのフィルターをこまめに掃除できる人間になろうと思った。ずっとそこにあるタスクのために腰を上げられるのはめちゃくちゃ大人だ。
この夏はそうめんをたくさん食べたい。揖保乃糸を冷水でキュッと締めて、大葉と茗荷をたっぷり刻んで、創味のつゆを割って、ちょっと多いかなと思った量をペロリと平らげたい。
夏の盛り、少し飽きてきたなという頃には塩とすだちなんかでスカしたい。ナンプラー/パクチー/ライムで気分を変えたい。夏バテ知らずの食欲には、揚げた野菜や肉をのせたい。おじいちゃんちの竹を割って、友達と流しそうめんをしたい。
0724
私が最近想像した、変てこなオフィスビルを少しだけ説明しよう。そのビルは何十階もあり高いのだが、細い。真ん中に通常のエレベータが通り、エレベータを挟んで二ブロックに分かれている。片側のブロックに二つ、もう一方に二つのテナントと、一つのトイレ。
23階には、黙々とディスプレイに向き合って書類を作ったり事務処理をしたりするような業種、という観点からは似通った三社が入っている。その作業は極めて退屈で、何も8時間も集中して続ける必要はない。離席したくてたまらない。三社いずれも、仕事中はほとんど会話をしないにもかかわらず飲み会だけは多いためか……。いや、ビルの十階にある食堂で辛い食べ物と揚げ物が流行っているためか……。まあ、細部はいい。
ともかく、23階職員はほぼ全員デフォルトで下痢状態である。
おそらく最も大きな理由は、離席してサボるため。23階職員は、サボるために下痢状態をデフォルトにすることを選んだのだ。
22階から24階の非常階段への扉は無い。23階のトイレの個室はほとんど常に埋まっている。23階職員は、階段を駆け降りるか駆け上がるかなんかして、上下階のトイレも使う。23階職員による3つの扉の開閉があまりにも激しく執拗なため、何らかの法令に反して扉は撤去されたのだ。非常階段への扉は重く、勢いよく開けた際に向こう側に人がいると、それなりに危険だから、というビル管理者の判断もあった。また、23階職員が下痢を吹き出すにあたっていちいち開けるのも面倒なため、取り外せとの強い要望があり、その判断を後押しした、らしい……。
なんと……! 扉のない爆速のエレベータが、22-24階に試験的に導入される運びとなった。22階と24階をバウンドし続ける箱である。23階職員は箱に飛び込み、箱から飛び出る。
まあ、技術は何でもいい。ここまできたら、階の移動程度なら瞬間的に可能な未来の高価な機械、という想像でもいい。23階職員は、下痢のために、あとは離席して仕事をサボるために、トイレの個室へ……。何ならもはや、下痢はしなくていい。
さらに、この変てこなビルの細部はどうでもいい。ビルのこうした変形は様々なバリエーションがあるだろう。ただ23階職員の中離席のための下痢がある、ということに駆動される想像においては。
本当のところ私が気になるのは、なぜトイレの個室についての、現にあるもの以上の変形の想像が困難なのかについてだ。トイレの個室はオフィスの中と思われる箇所にあってはいけない。トイレの個室という隔たりを変更してしまっているため、あからさまなサボり感がでそうだから。そのままオフィスデスクでぶりぶりしてもいいような技術の想像は大した変形ではない。そこまでしていいなら、もはや家であるし、もはや家ではない。文化が破壊されている。飛躍しすぎである。
トイレは隔てられすぎてもいけない。オフィスビルというのも喩えでしかない。公共空間から、隔てられすぎたものは公共空間ではない。
公共空間であるままに、トイレの個室はどのように変形されるのか。私はその想像のバリエーションをあまり多く持たない。
0723
母親譲りのおせっかいが災いして,いちいち人の悩み事に首を突っ込んでは,ああでもない,こうでもない,と好き勝手言っているうちに喧嘩になる。母親がおせっかいばばあなら,私だっておせっかいじじいだ。祖母はそれを凌駕するおせっかいくそばばあである。地元岩国の方言で「せんない」という,なんとも奥ゆかしいお国言葉がある。私の祖父は,お酒の飲みすぎか何かで祖母に小言を言われると,「おまは岩国イチでせんない女じゃの」とよく言っていた。「せんない」とは,標準語に翻訳することが難しい。あと数十年したら滅びるだろう言葉の一つだ。
私は恐らく,とんでもない性善説信仰者で,人の善性を信じすぎてしまっている。友だちの愚かな振る舞いを,どうしても看過できない。私だって普段はめちゃくちゃ適当だが,とくになにか咎められたりしないから,諦められているか,そもそもみんな他人にあまり期待していないんだろう。それはそうだ。そりゃ,他人の人生なんてどうでもいいけど,友だちとなると話が違ってくる。友だちが変な道に走っていくのがどうしても耐えられない。口出ししてしまう。
いやだが,それももうやめようと思う。自分の人生,好きに生きればいいさ。私が過去に通ったハズレルートに向かおうとする友だちをただ見守るだけ。自分と重ねようとしてはいけない。そいつにとっては意味のあることなのかもしれないから。
0720
とにかく酒乱なので、酔っ払ったときの悪行は数知れないが、急務で矯正したいと思っていることとして、貰い煙草と、その場にいない人間への電話がある。
貰い煙草は金銭的にも心象的にもありえない行為だし、そもそも健康のために煙草を買わないようにしているのに、酔っ払うと他人の持ち物を奪ってしまうとはどういう了見か。奪った僕の方ですら、翌日に二日酔いと喉の痛みが残るだけで、誰も幸せになっていない。
電話についても、夜中に酔っ払いからかかってくる電話なんて最悪だ。僕だったら絶対に無視する。しかし、僕の友人は皆優しいので、何だかんだ電話に出てくれる。それでいて僕はその時の会話をほとんど憶えていないのだから救いようがない。人の優しさに付け入るような真似はしたくない。あまつさえそれを無下にするような行為もだ。
常々やめようと思っているのだが、いかんせんやってしまう時は泥酔しているので、判断力が鈍る。
いつか読んだ小説に、酒を飲む時には必ずLINEをアンインストールする登場人物が出てきたのだが、それくらいの気概が必要なのかもしれない。
なんとかして先日貰った可燃式と・後輩へのダル絡み電話を、共に最後の一本にしたい。
0718
昨日の投稿について訂正が必要な箇所があった。野球部は,土砂降りでもかまわず練習していたと書いたが,実際,一年のうち彼らが休めるのは大晦日と,正月の2日のみだ。それ以外の日は,練習か試合がある。朝は6時から夜は22時まで。土砂降りかどうかはただの天気の話で,彼らには関係がない。激しい雷雨のなかグラウンドで練習試合をしていたところ,マウンドの真横に雷が落ちて,そこにでっかい穴が開いたんだよと,同級生のエースが私に笑いながら教えてくれた。インフルエンザに罹っても,2日後には練習に来なくてはいけない。母校では,定期テストの結果が悪いと補講に出席させられる。この制度は野球部員とて例外ではなかった。しかし前回も話したように,野球部には勉強するための「時間」などない。両の手はミミズ腫れと血豆でボロボロ,ペンなんて握れない。だが,彼らは決して補講室には来なかった。そんなことのために「時間」を使えば,大変なことになる。
カワグチ・マサオという男がいる。この野球部の監督だ。40年前からあの高校の野球部を率いている。私のママンが学生だったころからいる。私の弟が卒業した年にもいる。カワグチ・マサオは体育の教師ではない。教師の免許を持っていない。日中は別の会社で働いている,野球部の外部コーチだ。一介の外部コーチが,あの高校では強大な権力を握っていた。
高校の駐輪場の裏には,野球部の寮がある。市外から通学する部員のために,カワグチ・マサオが自費で建てたものだ。文字通り人生を野球にささげた男だ。気合が入っている。校内のどこを歩いていても,カワグチ・マサオの怒声がグラウンドから聞こえてくる。カワグチ・マサオの声は,市内の災害アラートと同じくらい大きい。世界史の授業で暴君ネロのページをめくりながら,カワグチ・マサオの絶叫と,平手が飛ぶ音をみんな聞いていた。二度,暴力事案で謹慎処分になっている。クビではない。謹慎だ。
野球部たちはタフだった。カワグチ・マサオに鍛え抜かれ,我々よりはるかに大人びて見えた。そこまで自らを追い詰めて練習を重ねても,夏の甲子園では一回戦で,健大高崎の“機動破壊”に敗れた。機動破壊とは簡単にいうと,「とにかく盗塁をしまくる」という,シンプルな戦術だ。ただ,これもシンプルに足がめちゃくちゃに速かった。あんなに人は早く走れるのかと,目の前で無慈悲に塁を進めていく相手の選手を見ながら唖然としたことを覚えている。
次の月曜日,体育館に全校生徒が集められ,野球部の帰りを迎えた。主将の柳川さんのスピーチに心を打たれた。私は高校で,マンドリンというイタリアの小さな楽器を3年間,オーケストラで演奏していた。3年生の時にはマンドリンオーケストラの全国大会にも出場することができた。マンドリンと向き合っていたときが人生で一番なにかに熱中していたんだと思う。高校に入学したてのころ,シンガーズハイの内山と軽音楽部を作ってほしいと職員室に談判しにいったことを思い出す。結局それは拒否されて内山は柔道部,私はマンドリン部に入ったが,後悔はしていない。なにかに夢中にのめりこんでいる男のひたむきさ,格好良さは野球部の背中を見て学んだ。だから野球部のことは好きだし,感謝している。野球のルールはひとつも知らないが,マンドリンの弾き方を知らない同級生のエースは演奏をほめてくれた。そういうことがあったから,高校生活をなんとか頑張れたんだと思う。今年の夏は神宮球場にでもいってみたい。
0717
私がいた高校は野球がそれなりに強くて何度か甲子園にも出ている。古豪と呼んでいいだろう。私が高校一年生のときにも甲子園に出て,夜行バスで西宮まで応援にいったことを覚えている。だから母校の野球部はすごいんだな~と漠然としたイメージがあって,今日の山口県予選で2回戦負けした速報をみたときはけっこうがっかりした。
私は野球自体に興味はないが,野球部のことは好きだったし,彼らのことを尊敬していた。
高校は超保守的な「田舎の自称・進学校」だった。好きか嫌いかでいうと,嫌いだった。勉強は,確保しなければならない「時間」だった。いつも時間の話をされていた。母校では,「時間」とは「勉強」と同じ意味だった。一日〇〇時間勉強しないと広島大学には合格できないと進路指導部の担任が言っていた。広島大学? あんな山奥の陰気くさいキャンパスに4年間通うの? みんな? と疑問に思っていた。私は早々と進学コースを降りて,私立大学受験者の隔離部屋みたいなところで数人の落ちこぼれたちと模擬試験を受けていた。あれは明らかな差別だ。
本当は野球の話がしたかったのに。高校時代の話になると憎悪が止まらない。
だが私は,あの高校の犠牲者だったわけではない。
高校の進路指導部は,私立大学を軽蔑していた。早稲田にいくより広島大学のほうが親孝行になるなどと本気で考えていた。私はその考え方にどんな根拠も見いだせなかったのだが,そういうプロパガンダに染められてしまった周りの同級生たちは結局最後まで広島大学や山口大学を第一志望欄に書き込んで,当然のように落ちて,滑り止めだと馬鹿にしていた,本当に訳のわからない私立大学に進んでいった。彼らのことは正直いって,あの高校の犠牲者としか思えない。
野球部は,勉強をしなくてよかった。正しくは,「時間」を勉強にあてる余裕などなかった。
テスト期間になると,部活動が停止になり,生徒全員が図書室にやってくる。普段から読書の場所として使っていたから,迷惑なことこの上なかった。図書室で本を読んで何がおかしい? とふつうに思うが,本を読んでいたのは数百人のうち私だけだった。
肩身が狭い思いをしながら本を読んでいると,窓の外から野球部のかけ声が聞こえる。母校では,野球部だけはテスト期間中も部活動をやってよかった。これも正しくは,「時間」を勉強にあてる余裕などなかった。彼らの声が聞こえてくると,何故か嬉しい気持ちになった。学校のルールを外れて,好きなことを毎日本気でやっている彼らが,心底かっこよかった。土砂降りでもかまわず練習していた。彼らは授業中の居眠りすら特別に許されていた。
本気の居眠りを見たことはありますか? 本気の居眠りっていうのは,上半身をすべて机に倒して,エナメルのカバンを枕,学生服を掛け布団にして,いびきをあげながら眠ること。本気で眠ること。うつらうつらではない。この高校の秩序を未だ知らない熱血新人教師にたたき起こされたらどうするか? 大きなあくびをして,教師を一瞥し,ふたたび眠る。ちっぽけなプライドしか持っていない教師は,たちまちに自尊心をなじられ,授業を再開する。私も一度「本気の居眠り」を真似してみたが,やはり何も言われなかった。私の場合は諦められていただけだが,そのころにはもうドロップアウトの羞恥心とかは無くなっていた。当時仲良くしてくれた野球部の友だちには感謝している。
0715
「自分が使わない言葉一覧(全紹介)」というnoteを読んだ。おもしろかった。途中で,「両手に花」という言葉を使わない理由について,「これを使わない理由を説明するのは難しいんですが、簡単に言うと、『ふだん自分が誰かに”花”と言ったときに、Flowerの花を想像してもらうため』です。」というコメントがあった。私も,ほぼ同じ考え方だ。
この人みたいに440個きちんとリストアップして留めておくことはないが,私にも使わないことを決めている言葉はたくさんある。そうすることによるポジティブな効果は日々実感している。
それから,あるおしゃべり好きの友人Aがいたとして,共通の話題や語彙や,価値観がAとの会話の素材としてあるが,こちらが明確な意思をもってある話題や語彙や価値観に触れないことで,ある程度Aの言動を操作することができる。当たり前といえば当たり前だけど,これもマインドコントロールの一種なのだと思う。美学として気を付けていることではあるが,この操作をさらに研ぎ澄ませると,他人の思考までコントロールできてしまいそうでけっこう恐ろしい。
0714
今日はササキリユウイチと落ち合って,彼の執筆を見守るという予定を立てていた。2時間ほど遅刻して,新宿駅地下街のカフェに入ると,彼の座る机には何十冊も本が積まれていて,コーヒーカップは空だった。私は外耳炎がまた悪化しているようで,脳みその外縁まで膿が溜まっている感じがした。まったく頭が働かなかったが,コーラフロートのアイスクリームを一口食べるとだいぶ元気が出てきた。今日は糖分を大切にしていこう。
そのうちに薬が効いていて,店を出たあと新宿三丁目まで歩いた。雨が上がったあとでクソ蒸して,シャツが汗まみれになった。トルコ料理屋でケバブを食べた。トルコのビールを飲んだ。ササキリ君はお酒は今日は飲まないと言っていたが,私がビールを注いだなり,コップから一口飲んでいた。そのあとロイヤルホストに移った。パフェを頼んだ。一応,カンヅメ合宿なのだけど,こんなに甘いものばかり食べていていいのだろうか。っていうか,私も締切が迫っている提出物をどうにかしなきゃいけないし,そのための資料を持ってくるのを忘れたし,ついさっきまでロイホで居眠りしていた。
ロイホで居眠りができて,本当に嬉しかった。これはササキリ君の話し方のまねだ。しかし,夕方に居眠りができて嬉しい。最近いつもこの時間に,鉛のような睡魔が襲ってきて,数秒ずつ気絶している。眠りに落ちる瞬間,『大股びらき』の一節を思い出す。どうしても寝たいのに眠れない夜は,不思議と思い出せない。輝かしいねむりの記憶にまた出会えるように,いつでもいつまでも思い出そう。
「睡眠は,われわれの註文通りにぐるぐる廻りながら泳いでいるようであった。鳥は翼をすぼめ,不眠の縁に来て棲まり,首を曲げたり,翅に磨きをかけたり,足ぶみしたりするのだったが,遂に眠りの内部に侵入しては来なかった」(コクトー,1923;澁澤,1954)
ササキリ君にはsaloonであたらしく連載をはじめてもらう。とても楽しみだ。
0713
0712
健康診断の結果が返ってきた。肝臓だけ「C3」でそれ以外Aだった。さらば青春の光のYouTube企画で見たことがあるので,3カ月後に再検査です。という意味なのだとすぐにわかった。ちなみに検査には行かない。「お酒を飲み過ぎなので,お酒の量を減らしてください」と言うだけなら,あすけんの女にでもできる。最近寝れないのは,いろいろ要因があるが,お酒の量を減らしているのが大きい理由だと踏んでいる。ここ数日,飲酒のペースを平均的な水準まで戻してみたら,最低限の睡眠時間は確保できるようになった。調子も良い。
寝不足状態は本当に最悪で,おもしろいことが何にも考えれなくなるし,イライラして他人に慢性的に当たり散らして嫌われてしまうので,肉体の健康と,ていうか肝臓とトレードオフだ。私は睡眠を選ぶ。
0710
眠い。最近全然寝れていない。とにかく眠い。睡眠不足だとイライラしやすいが,今日はイライラする元気もない。頭が働いてない。午前はデスクでほぼ気絶していた。どうにかしなきゃと思うが,25年生きてていまだに入眠の仕方がよくわからず,ベッドに入ったあと数時間寝れない。日中はすさまじく眠いのに部屋に戻った瞬間脳が覚醒した感じになる。これは正直な告白だ。寝たい。薬はあてにならない。お世話になっているお医者さんは単科クリニックの開業医にしては珍しく良心のあるひとで,すぐに睡眠薬の処方箋を書かない。まず生活状況を聴取して,困っていることと改善の目標を明確にして,それからって感じ。本当に寝た方がいい。ちゃんと睡眠時間を管理できているひとは,誇っていいと思う。かっこいい。最近他人にかっこいいと思うことが増えた。寝てる人マジでかっこいい。だめ,本当に頭が動かない。
0709
0708
開票から一夜が明けた。同世代の友だちがみんなバッドに入っているので,逆張り人間として,ポジティブな意見を考えてみる。
まず,みんな投票に行っていた。これはすごいことだ。私が住んでいる杉並区では,前回より投票率が5パーセントも上がったそうだ。そのうち20代の投票率がいかほどかは分からないが,間違いなく選挙に対する意識が高くなっているというか,我々にも政治への当事者意識が芽生えているのかもしれない。
石丸伸ニについては,たしかに悪夢的だったと言えるかもしれない1)。一方で10代,20代前半の若いひとが石丸に「夢をみる」気持ちはけっこう共感できる。なんかやってくれそうな雰囲気はあるし,ひろゆきや,その他ネット論客系の流れで,忖度文化や年功序列制とは無縁の,有能なリアリスト(うさんくさい右翼や,危機感を唱えるばかりのリベラルとも関係ない)というイメージを我が物にした実績がある。
石丸をきっかけに若者が政治に興味を持つのはいいことだと思うし,石丸のやり方は間違いなく洗練され,社会一般に希釈され無毒化され,もしかして倫理的な様相さえ帯び,ふたたび4年後,ひろく一般的な手法になるかもしれない。
それに,石丸伸ニの出馬は,今年でよかったのかもしれない。こういったやり方でプロップスをゲトった人間は,同じくらいの速度で人気を失っていく(そうであってほしい)。彼のやり方は新しかったと思うが,かなり稚拙でもある。蓮舫から流れてきた票も相当多いだろう。4年後,とにかく4年後だ。カウンター(たいていの場合ただの冷笑)ではなく,イノベーティブな人間が,若者世代を夢中にさせるために活用してほしい。
1)完全な悪夢だ。どうしようもないクソを見せつけられた気分だ。自分の頭を使ってものを考えたことがない人間ほど,重要なところで自分の頭を使って考えてしまう。その愚かしい部分を完璧に利用されている。こんな気分になるくらいなら,選挙権年齢を引き上げるべきだとすら思った。それから,私が思うに石丸のTikTokを見て夢中になったのは10,20代のガキどもだが,それらをシェアしたのは40,50代のノンポリのどうしようもない馬鹿だ。この連中こそ,批判されるべきだ。人生を,ひいては他人の人生もただのエンタメ,ただの苦痛からの逃走,ただの学園祭だと思っている。ふざけるなと思う。
0705
幡ヶ谷に引っ越した。
物件が首都高に面しているので、排気ガスがひどくて窓を開けられない。
窓の外には幡ヶ谷料金所、一階に降りれば甲州街道。歩道では自転車とキックボードが行き来している。
仕事後、19:00頃に幡ヶ谷駅に帰ると、既に酔っぱらいと外国人集団が屯している。駅から徒歩5分で家に着くのだが、その短い間にコンカフェの客引きと何組もすれ違う。ポストや電柱、地上機器の類には例外なくグラフィティが描かれ・ステッカーが貼られているし、僕が契約したアパートの共用部にも、引っ掻き傷で下ネタが刻まれていた。
まだ一週間も寝泊まりしていないが、僕はこの街が似合うタイプの人間ではない。
しかし、住めば都とも言うので、そのうち肌に合ってくるのかもしれない。
気に入っている点として、新宿へのアクセスがべらぼうにいい。最悪歩いて行けるので、新宿で飲む際に終電を気にすることはなくなるだろう。
あと駅周辺に飲み屋が十分ありそうなので、それは嬉しく思っている。
0704
最新のChatGPTに仕事に使う文章を作ってもらった。ちなみに20ドル払った。総合的にみて80点くらいの例文が出力された(技術面では95点で,情緒面で減点があった)。あとは私が手直しをするだけ。直しのヒントもAIに聞いた。私とAIはけっこういいコンビだと思う。
『世界はナラティブでできている』という本を読んでいる。異常に面白い。最近読んだものの中で一番面白い。割と革新的なことが書いてある。驚愕の連続だ。面白い本は秘密にしたくなるが,マジで面白い本は共有したくなる。
私はこの本を読む以前から,世界はナラティブでできているんだよ! と周りに吹聴していて,その説明を求められると,そういうことになっているんだよ! とお茶を濁し続けていたが,幸運にもこの本と出会えたことで,やっぱり世界はナラティブでできていたことに確信が持てた。証拠もある。
ChatGPTと我々の関係は,論理とナラティブの関係だと言い換えることができそうだ。論理とナラティブは相互に補完しあっている。その2つをつなぐのがプロンプトだ。ChatGPTにおいては,プロンプトがすべてだと思える。理論(真理)とナラティブ(ゆらぎ)をつなぐプロンプトを,どれくらい理論に寄せるか,あるいはナラティブに寄せるかで,回答にグラデーションがかかるのがとても面白い。趣味だ。
AIについては,処理速度と正確さと,何時間働かせても労基にひっかからないところはすごいと思うが,それ以外は特にない。「処理速度と正確さ」というのも,Googleやいままでの雑魚AIと比べてすごい。という話だと思う。そんなことをいまさら人間の脳と比べるのは退行的というか,時代遅れで,ナラティブがどうだとかそういう話がもっと盛り上がってくると思うし,紀元前から貶められ続けていたナラティブの価値が,たった数年で論理と並列か,あるいはそれ以上になるというのがかなりすごいことだと思っている。そういうことが書かれている本です。
0703
クローズドなSNSが流行っているらしい。らしいっていうか,身の回りでそうなっているから実際に流行っている。どこかのウェブメディアの言い方に倣ってみただけだ。
「クローズド」っていう言葉には,「閉じられた」とか「閉鎖的な」といったやや後ろ向きのニュアンスがあって,受動的な感じもする。だが,Instagramの親しい友達機能もDiscordサーバーもTelegramも,シェアの射程距離は自分で決められるのだから,私はむしろ,好ましい流行りだと思っている。saloonも,思いっきり閉じている。閉じた感じでやってはいきたいけど,閉ざされた感じにはなりたくない。
このあたりの雰囲気は,頭の中でイメージできてはいるんだけど,まだ言葉にできてないから,ひとまずは静かに記事を更新していきたいと思う。いい感じの飲み屋に入ったときの感じなんだよね。イメージは。